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第22話 あんパンの罠 後編


 十階建てのマンションの屋上は、三十メートルを越える。風も強い。
 柵の外側の端っこに腰掛けている黒髪の女。長い黒髪と白のジャケット、青いプリーツスカートという学生を思わせる恰好だが、見た感じ学生という年頃でもない。
 両手で黒い釣り竿を構え、その先端から伸びた極細の糸に、サキツネは吊るされている。
 ひどく現実離れして意味不明な状況だった。
 女は左手で自分を示し、親しげに話かけてくる。
「あ。覚えてないかな? 草埜神社の大食い大会に参加してた三位」
「大食い大会?」
 サキツネは眉を寄せ、黄色い瞳を泳がせた。
 どこぞの神社でうどんを食べまくった記憶はある。その時に、食欲魔神に負けた記憶もある。しかし、この女の記憶は無い。いたと言われればいたような気がするし、いなかったと言われればいなかったような気もする。
 吹き抜ける風に、狐色の髪の毛と尻尾がたなびいていた。
「朝里さんが出てたから優勝は無理とは分かってたけど、あなたみたいなダークホースがいるとは思わなかったな。でも、いっぱい食べられたからいいか」
 勝手にそう続けて、女が笑う。
 しかし、サキツネに女の記憶は無かった。覚えていないのだろう。
 思い出せないなら仕方がない。
 そう結論づけ、サキツネは右手で釣り竿を指差した。
「これは一体、どういう事? どういう目的があって――」
 狐耳を動かし、女をじっと見つめてみる。左手で糸に掴まっているので、口を釣られずに済んでいた。蜘蛛糸並に極細で異様に頑丈な釣り糸と、原理不明の釣り針部分。釈然としない部分は多いが、サキツネが釣られているのは現実としてそこにあった。
「ちょっとした実験なんだけど、まさか本当に釣れるとは思わなかった」
 真顔でサキツネを見つめ、そう言ってきた。
 サキツネは武器庫から取り出した拳銃を女に向ける。
「開放を要求する」
「いいよ」
 あっさり答え、女が釣り竿を動かした。
 口の異物感が消え、糸が手の中をすり抜けて行く。何をしたのかはよく分からなかったが、要求通りサキツネは開放された。
「うん?」
 違和感を覚え、瞬きする。唐突すぎて、思考が追い付かない。
 自分は糸だけで空中に吊り下げられていた。女は要求通り、糸を外した。つまり、サキツネを支えるものが無くなった。自分がいたのは十階建てのマンションの屋上である。地上三十メートル以上の高さで宙吊り。
「んー?」
 身体を包む浮遊感と、目の前に映るマンションの壁。
 おそろしく致命的な事を、しれっと実行された気がする。
 ガゴン。
 状況を理解した時には、サキツネは地面に激突していた。本能的な部分で受け身を取っていたが、気休めにしかならない。意識が吹き飛ぶかと思うほどの衝撃に、髪の毛と尻尾の毛が大きく逆立つ。人間だったら大怪我をしていただろう。
 タイル敷きに亀裂を走らせてから、サキツネはのそりと起き上がった。
「痛い……」
 顔に張り付いたタイルの破片を手で払いのける。
 大きく息を吸ってから吐き出し、サキツネは武器庫から拳銃を取り出した。全長四十センチ近い、ゴツい鈍色のリボルバー。スミス&ウェッソンM500。.50口径のマグナム弾を発射可能な最強の拳銃のひとつである。
「これは許すまじ」
 静かに呻き、サキツネは駆け出した。足音も立てず疾風のように。マンションの正面を突き抜け、ホールを突っ切り、非常階段を一気に駆け上がる。
 屋上へと続くドアは開け放たれていた。
 薄暗い階段から、屋上へと飛び出す。
「あ、来た。頑丈な狐だね」
 女は柵の内側に移動していた。左手に釣り竿を持ったまま、サキツネを眺めている。両手に構えた拳銃にちらりと目を向ける。だが、気に留めている様子は無かった。
「覚悟ッ!」
 サキツネは両手でグリップを握り締め、指をトリガーにかける。
「食べる?」
 緊張感もなく呟き、女は右手を前に出した。その手に乗った大きなシュークリーム。綿雲を思わせる形で、白いシュガーパウダーがまぶしてある。
 ごくりとサキツネの喉が鳴った。
 その瞬間。
「とうっ」
 女がシュークリームを思い切り放り投げる。鉄柵の向こう側へと。
「逃がすかっ」
 考えるよりも早く、サキツネは飛んでいた。屋上を駆け抜け、コンクリートの床を蹴り、さらに柵を蹴って、空中のシュークリームへと。
 だが、右手がシュークリームを掴む前に、その姿が消える。
「残念でした」
 振り向くと、女が右手にシュークリームを持っていた。無邪気な笑顔で、左手で釣り竿を動かしている。見えない釣り針で空中のシュークリームを引っかけ、手元に引き戻したらしい。回収を前提で投げたようだった。
「何故……だ――!」
 泣きながら、サキツネは右手を伸ばす。だが、届かない。届くわけがなかった。
 無情に重力は作用する。
 ドゴッ。
 再び地面に激突。
「ふんぬうぅ!」
 アスファルトの地面を叩き、サキツネはすぐさま跳ね起きた。涙を流しながら歯を食い縛り。S&W M500を武器庫にしまい、新たな武器を取り出す。
 両手で抱えるほどのM240機関銃。弾帯の入った弾倉が取り付けられていた。
 機関銃を抱えたまま、再び階段を駆け上がり、屋上へと飛び出す。
「三度目の正直!」
 女は変わらず屋上の隅に立っていた。さきほど掴んだシュークリームは持っていない。食べてしまったのか、片付けたのかは不明だった。
 サキツネは女に狙いを定め――
「二度あることは三度あるって言うよね?」
 視界が一回転する。
 心のどこかで予想はしていたが……
 気がつくとサキツネは空中にいた。
 女が両手で釣り竿を構え、それを真上に振り抜いている。楽しそうに笑いながら、カツオでも一本釣りするような勢いで。先端から伸びた糸が、日の光で微かな白線として浮かび上がっていた。糸は釣り竿の先端から、サキツネの足首まで伸びている。
 足首辺りに引っかかっている釣り針は、やはり見えなかった。
 入り口に針を仕掛け、サキツネが来たところを狙い、釣り上げたのだろう。
「あー……」
 口から漏れる意味のない呟き。
 釣り竿がしなり、足から糸が外れる。
 青い空に白い雲がいくつか浮かんでいた。太陽はただ白く、風が耳元で唸りを上げている。高いところから眺める世界は、不思議ときれいだった。多雑な屋根の色と灰色のアスファルト。遠くには山の稜線が見える。
 重力は万物に平等に動き、自由落下とはその実かなり不自由だ。
 ガゴン。
 サキツネは三度アスファルトの地面に激突する。
「うぅ………」
 しかし、今度は起き上がらない。
 硬い地面に頬をくっつけたまま、頭の中でカーソルを動かす。

 リトライしますか?
    はい
 [> いいえ

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