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第1節 朝の鍛錬


 夜の欠片が残る早朝。
 肌を撫でる空気は、冷たく心地よい。真横から差す朝日は、朝霧道場の庭を照らしていた。時間は朝の五時前頃だろう。
「百七十一、百七十八、百七十九――」
 家の縁側に腰を下ろし、寒月は数字を数えていた。
 視線の先では、白い鉢巻を巻いて道着を着た明日香が、真剣を素振りしている。昨日見せてくれた刀・時雨である。白木の鞘は腰に差していた。真剣の素振りは、木刀より身体に負担がかかる。だが、その分力がつく。
「二百、二百一、二百二……」
 二百を過ぎたところで、素振りの形が変わる。上段の振り下ろしから、小技を織り込んだ複雑な素振りへと。一般的な剣道ではしない形である。
 明日香の顔には汗が滲んでいる。
「実戦を前提とした剣術か――」
 剣術と剣道の違い。剣道には規則というものがある。反則技というのが存在するのだ。試合以外で相手を倒すことを前提としていない。だが、明日香が使う剣術は、反則技が存在しない。手段を選ばず相手を倒す――もしくは殺すことを前提とした剣である。刃を真直ぐ敵の急所へと打ち込む技術。
「こいつは、本気で妖魔と戦う気じゃないだろうな?」
 呻くが、否定する材料が思いつかない。たかが鋼鉄の刃で妖魔を倒せるわけではないが、だからといって何もしないというこはないだろう。
 寒月は縁側から立ち上がった。
「おい。明日香」
「へっ?」
 しゃっくりのような声を出して、明日香が目を向けてくる。その顔には、紛れもない驚きが表れていた。表情のままの声を上げる。
「寒月! あんた、いつからそこにいたの!」
「お前が素振りを始める前からだ」
 寒月はさらりと答えた。明日香が時雨を携えてここに来てから、頭に鉢巻を巻いて気合を入れ、素振りを始めるまで。全部見ている。
「でも――あたし、全然気づかなかったよ」
「そりゃそうだ。俺は存在を消してたからな」
「存在を消す?」
 時雨の切先を落とし、明日香が訊いてきた。存在の消去。実戦剣術の使い手とはいえ、現代に生きる明日香には未知の技だろう。
 寒月は、右手を上げた。
「古い技だよ。これを完璧に身に着けた人間は、歴史上二十人に満たない。気配を殺すことの一段上を行く秘術。視界の中心から接近してこない限り、接触するか話しかけるかするまで、その存在を感じ取られることはない」
「それって、あたし覚えられる?」
「無理だろ。それに、お前が覚えてどうする。これは暗殺用の技だ」
 言いながら、寒月は明日香の正面に移動した。丁度、刀の間合いの一歩外である。
 明日香の持つ時雨を指差し、
「それより、お前。その刀で、妖魔と戦う気か?」
「もちろん」
 何の疑問もないとばかりに、明日香が答えた。
 寒月は時雨に向けていた指を、自分の身体に向ける。
「なら、俺に向けて技を出してみろ。これからやってくる妖魔と戦う気なら、最低でも俺に一撃入れられるようじゃないと話にならん」
「一撃、ね……」
 獲物を見つけた獣のような形相で呻き、明日香は時雨を鞘に納めた。鞘の上部を左手で掴み、柄の根元に右手を添える。居合の構え。
(必殺技は、居合か)
「来い」
「はッ!」
 裂帛の気合とともに、明日香が右足を踏み出した。身体を捻った動きから、時雨を抜き放つ。鞘走りと踏み込みの加速を得た刃が飛んでくる。
 それを――
 寒月は左手の人差し指と中指で挟んで止めた。
「それなりに速い居合だが、未熟だ。妖魔と戦うには……」
 バシッ。
 次いで横から飛んできた白木の鞘を、右手で苦もなく受け止る。居合を囮にして本命の鞘の狙ったのだろう。だが、踏み込みの甘さが鞘の攻撃を教えていた。
「考えたようだが、詰めが甘い……ッ!」
 頬に痛みを感じて、寒月は両手を離す。
 手をやると、針が一本刺さっていた。
「含み針か。面白い技を使うな」
 それは三センチほどの針である。含み針――口に含んだ短い針を飛ばす技。いつ口に仕込んだのかは分からない。
「これでどう?」
 時雨を動かしながら、明日香は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「針一本だけど、一撃入れたよ」
「時雨と鞘を囮に使って、本命の含み針を当てるとは……」
 言って、寒月を手を出した。明日香は自分の力に自信を持っているが、過信はしていない。それなりに機転を利かせ、力の不足分を埋め合わせることができる。
「時雨を貸してくれ。刃の力を強化する」
「強化って……できるの? そんなこと」
「いいから貸せって」
 言いながら、時雨を受け取った。刃渡り七十五センチ。刀剣としては標準的な長さだろう。重量も標準的、重くも軽くもない。研がれた刃が物騒なきらめきを見せている。
 寒月は、ためらいなく時雨を左手の平に突き刺した。根元まで。
「え! え?」
「鮮血の刻印」
 動揺する明日香をよそに、寒月は刀身を手から抜き放つ。赤い血に濡れた刃。こびりついた血が、刀身に吸い込まれていき、やがて元の白銀色の刃に戻った。
 左手に開いた穴は、数秒も経たずに塞がる。跡も残らない。
「これで完成だ。斬れ味は元の数倍に増した。強度はチタン合金を超える。やろうと思えば、斬鉄も可能だ。殺すまでは至らないが、妖魔も斬ることができる」
 解説しながら、寒月は時雨を差し出した。
「へえ。凄い!」
 受け取った時雨を鞘に納め、明日香が感嘆の声を上げる。
 が、その表情に曇りが表れた。
「こんなことできるなら、何で昨日やってくれなかったの?」
 訊かれて、寒月は明日香の眼前に指を突きつける。
「生兵法は怪我の元、って言葉を知ってるだろ。お前の力と技が刀についていかなければ、何もしないよりも危険だ。刀の力に頼って妖魔に挑めば、返り討ちにあう。そうなれば命はない。自分の力を過信すれば……即、死につながる。そのことを忘れるな!」
「う、うん」
 気圧されたように、明日香が頷いた。
 寒月は明日香に背を向ける。振り返らずに、手を振った。
「それと、特訓はほどほどにしとけよ。無茶な修行は逆効果だからな」

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