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第1節 さようなら 


「殺される覚悟は、できています」
 言って、微笑む。それは、自分の行く末を受け入れた、穏やか笑みだった。
 自分の命は、数分と残っていない。
 目の前には、一人の男が立っていた。その格好や顔立ちは分からない。深夜で、しかも満月を背にしているのため、影しか見えない。だが、どうでもよかった。
 この男が自分を殺す。変えようのない事実だけが、そこにある。
「抵抗は、しないのか?」
 男が訊いてきた。
「ええ。抵抗しても無駄でしょう?」
「無駄じゃない。お前は俺より強いからな。死ぬ気で戦えば、俺を倒して逃げられるかもしれない。そう考えなかったのか」
 再び男が訊いてくる。それは、自分を殺すことをためらっているような口調だった。できれば、逃げてほしいという思いが感じられる。
 だが、自分は逃げない。
「たとえ、あなたから逃げても、あなたの仲間が追って来ますから。いずれは殺されます。ならば、あなたに殺されたい」
「そうか……」
 男は目を伏せたようだった。気配で知れる。
「私がしたことは、重大な掟破りです。その代償が命ということも知っています。彼女と会った時から、殺される覚悟はできていました」
「…………」
 男は左手を上げた。まるで手品のように、その手の中に反りのある一本の棒が現れる。しかし、それは棒ではなかった。黒鞘に納められた、細身の剣。
 刀――
 人を殺すために存在する鋼鉄の武器。それが自分を殺す。
 男は刀の柄に手をかけようとしたが、指先が触れただけで手を離した。
「覚悟はできています。早くしてくれませんか?」
「俺は、殺しは好きじゃない……それに」
 男は一度口をつぐんでから、
「お前のような奴を殺すのは、これが初めてだ。お前は誰かを殺したわけでもない。何かを破壊したわけでもない。掟と言えど、そういう奴を殺したくはない。何より――お前は、俺の親友だ。親友を殺せるほど、俺は無神経じゃない!」
 辛そうに言って、首を左右に振る。
「あなたは、優しいですね。いいえ、お人好しですか」
「そうだが、お前に言われる筋合いはない」
 失笑しながら、男は頭をかいた。だが、それだけである。刀の柄に手をかけようとはしなかった。なかなか自分を殺すことに踏み切れないらしい。
 仕方がないので、自分が口を開く。
「そういえば、私の妻は元気にしていますか?」
「ああ、元気すぎるくらい元気だよ。今のうちは……。だが、彼女がこれからどうなるかは、お前も知ってるだろ?」
 問われて、我知らず目を落とした。
「我々と交わった人は、寿命を大幅に削られてしまうことは知っています。彼女は数年と持ちません。五年以内に命を落とすでしょう」
「なら、なぜ……? 俺が何度も忠告したのに……」
 男は腑に落ちないとった声を出した。
 その言葉に、毅然と答える。
「私は彼女を愛していました。彼女も私を愛していました。それでは不満ですか?」
「…………」
 男は何も言わなかった。
「彼女の命は、私の命を以て償います」
 告げてから、自分の胸に手を当てる。
「私を殺して下さい」
「その前に、言っておくことがある」
 男は落ち着いた声音で呟いた。
「お前の子供のことだ」
「―――!」
 呼吸が止まる。
 続けて、男が言ってきた。
「今日の夕方に生まれたよ。女の子だった。名前は決まっていないがな」
「そうですか……」
 力なく笑う。それは、泣いているようにも見えたかもしれない。自分を殺す男には、どう見えるのだろうか。
「お前にも見せてやりたがった。だが、それはできそうにもない。俺はここでお前を殺さなきゃならない。殺したくはないが、掟だからな。俺たちは掟に逆らえない」
 噛み締めるように言って、刀の柄に手を添える。
「お前に言っておきたいのは、娘の未来のことだ」
「未来……」
「お前の娘がどういう立場に立たされているかは、知らないわけじゃはないだろう。将来、その力を狙う輩に狙われる。現に、もう動き出している気の早い連中もいる」
「…………」
「俺はお前を殺す。だが、その死に誓って、俺は命を懸けてお前の娘を守る。お前の娘は、誰にも渡さない。安心してくれ」
「ありがとう」
 そこで会話が止まる。
 沈黙が訪れた。風も吹いていない夜の闇。何も聞こえない。いや、静寂そのものが音としてうるさいほどに聞こえてくる。
 その沈黙を破ったのは、男だった。
「先延ばしする材料が尽きた。俺もお前を殺す覚悟を決めなきゃならない」
 呻いて、刀を抜く。
 空に解き放たれた、赤い刀身。青白い月の光を受けて、幻想的とも言える煌きを見せている。刀剣のことはよく知らないが、それが生半可な代物でないことは一目で知れた。
 寂しげに笑う。この世に未練がないといえば嘘になるが、自分は死ななければならない。重大な掟を破り、妻の命を縮めた。その代償が、自分の命である。
「さあ、やって下さい」
「ああ」
 答えて、男は滑らかな動作で、刀を鞘に納めた。音はしない。鞘の根元を左手で掴み、右手で柄を掴む。それは、居合の構えだった。
「お前を殺す技は、天翔流居合・一閃。痛みを感じる間もなく、お前は死ぬ」
 そう言うと、男の表情が別人のように厳しくなる。今まで自分を殺すのを躊躇していた者とは思えない。生粋の戦士の顔だ。
「あなたに殺されるなら、本望です」
 言ってから、眠るように目を閉じる。
「さらばだ、無明!」
 その言葉を最後に――
 無明の意識は途絶えた。永遠に。

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