Index Top 第2話 昨日とは違う今日 |
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第1章 朝目が覚めて |
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音もなく。 リクトは目を開ける。 肌を撫でる静かな空気。朝特有の冷たい空気だった。窓から差し込む、朝の白い日差し。思考にかかった靄が緩やかに晴れていく。 白い天井――だが、自分の知っている模様ではない。 「あぅ?」 徐々に鮮明になっていく思考。 昨日の夜あった事。その前にあった事。自分がどうなったか。 右手を持ち上げてみる。人間とは違う青みがかった水色の肌と、細くしなやかな手と指。自分の腕ではない。 「そっか、俺、人間辞めたんだっけな……」 いまいち納得はできないが、自分は何かの実験に巻き込まれ生命活動停止となり、ミナヅキと名乗る妖魔の身体に精神を居候させられている。そして、リクト自身が実在しない存在とも言われた。名前も情報もあるのに、大学に学籍は無く、住所に家もない。突如この世界に現れたかのように。 「わけわからん……」 存在しているのに存在していない自分。それを考えると頭が痛くなるので、別の機会に考えることにしておく。いずれは真剣に考える必要はあるだろう。 息を吸い込み、身体を起こす。 紺色の髪の毛が微かな音を立てて流れ、乳房の重さが肩に掛かった。男の身体では感じることのない感覚。奇妙さよりも、ズレを覚える。 「ミナヅキ、起きてるか?」 軽く自分の頬を叩きながら身体の持ち主に声をかけた。 反応はない。 「ミナヅキ?」 頬を引っ張りながら再び声を掛ける。身体を動かす優先権は基本的にミナヅキにあるが、リクトの意志でも身体を動かすことはできた。特にミナヅキが眠っている場合は、主導権は完全にリクトのものとなるらしい。 一度目を閉じ、開く。 「リクトさん……今何時ですか?」 半分だけ目を開いた状態で、ミナヅキが呟く。擦れた声で。身体は起きているが、ミナヅキの意識は八割方眠っていた。身体の状態もそちらに引っ張られていくのを感じる。 リクトは右手を伸ばし、時計を掴んだ。腕が重い。 「五時半」 時計の示す時刻を口にする。リクトが普段起きている時間よりも一時間早い。昨日早く寝たせいか、かなり早く起きてしまった。 ミナヅキはじっと時計を見つめ、口を動かす。 「私は八時まで眠っていますので、その間はリクトさん自由にしていて下さい……。あ、朝ご飯の準備はお願いします……」 「………」 返す言葉は無かった。 一度目を閉じ、開く。 「寝ちゃったよ……」 ぼやきながら、リクトは首を捻った。リクト自身眠気はなく、朝特有の身体の重さもほとんどない。すっきりと起きた時の感覚だ。この身体の持ち主であるミナヅキは酷く眠そうで、身体も重かったというのに。 「そういう構造なのか?」 膨らんだ胸元に目を落とす。 寝間着の隙間から、谷間が見えた。 胸の奥にある核。人間など普通の生物とは違う、妖魔という人工生物。おそらく、身体の状態は、人間よりも遙かに強く精神の状態に引っ張られるのだろう。 適当に推測し、リクトはベッドから足を下ろした。 サンダルを履き、外に出る。 青い寝間着姿はそのままだ。クローゼットには昨日着ていた服と同じような服が何着も収まっていたが、まだ着替える気はない。 「これからどうなるんだろうな、俺」 夜の色が残る朝の空を見上げ、リクトはぼんやりと考える。 一人だけ異世界に放り出されたようなものだ。これから何をすればいいか、どうすれば元に戻れるのか、そもそも元に戻れるのか、全く予想できない。 「おぅ、ミナヅキの嬢ちゃん」 横から声を掛けられた。親しげな若い男の声。 「こんな朝早くから起きてるなんて珍しいな。いつもは八時前まで寝てるのに」 リクトはそちらに振り向いて――固まる。 枝切りハサミやノコギリなどの植木剪定の道具を積んだ電動カートが、近くに停まっていた。そして、運転席に座ったネコのような生き物がリクトを見ている。右前足で電動かとのハンドルを掴んだまま。 「どちら様デスカ?」 リクトはその生き物を凝視した。 ネコのような、だがネコではない生き物。ネコではないが、ネコっぽい。薄茶色の毛で覆われた身体に、白衣を纏い、頭に博士帽子を乗せ、肩掛け鞄を提げている。擬人化した猫という表現が一番近いかもしれない。 「ん?」 ネコのような生き物が、運転席から下りた。ネコっぽい体付きだが、動きは人間のようである。それから尻尾を立て、四つ足でリクトの前まで歩いて来た。その姿はネコっぽい。普通の猫は人間の言葉を喋ったりしないが。 硬直したままのリクトを見上げる。 「んン?」 眉間にしわを寄せる。 「お前……誰だ、ゴルァ? ミナヅキの嬢ちゃんじゃあ、ないな?」 「えっと、ミナヅキの身体に居候してるリクトです。初めまして」 気圧されつつも、リクトは簡単な自己紹介をした。 二、三度瞬きしてから、ネコのような生き物が後退る。その場に腰を下ろし、両前足を器用に組んでから、目を閉じた。何かを考え込むような仕草である。リクトの挨拶に思うことがあったらしい。 目を開き、改めてリクトを見上げた。 「居候ってことは、精神移植か……これ? 人間の精神を妖魔に押し込めるって――可能だけど、正気か、おい……? いやいや、オルワージュの御大が正気な事する方が珍しいけど。しっかし無茶な事しやがるな――」 一人でぶつぶつと言葉を連ねてから、納得したように頷いている。 右手を伸ばし、リクトはおずおずと訊く。 「今さらっと恐ろしい事言いませんでした?」 「気にすんな、ゴルァ」 右前足を一振りして、一蹴する。 そのまま、その場に後ろ足で立ち上がった。四本足の動物が無理に立つような不自然さはない。二本足でごく普通に立っている。身長――と呼べるかどうかは怪しいが、背丈は五十センチ弱である。意外と大きい。 「と、自己紹介が遅れたな。オレはギゴ。野良猫同盟の五番だ。気楽にギゴ教授と呼んでくれな。今はここで掃除と植木の手入れのアルバイトやってるぞ」 と、ギゴは気さくに名乗ってくる。 教授という肩書きが引っかかった。服装を見るなら絵に描いたような博士である。リクトの状態を聞いて考え込むということは、精神移植など高度な術に関する知識もあるようだ。しかし、猫のような生物が教授職をしているとは聞いたことがない。 もうひとつ気になった言葉。 「野良猫同盟?」 いかにもな組織名である。野良猫の同盟。凄いのか凄くないのかよく分からないが。 しかし、ギゴは苦笑いをして頭を掻いた。博士帽子が揺れる。 「ああ。この街に住んでる精霊の集まりみたいなもんよ。二十人くらいいるな。同盟って言ってるけど、そんな立派なもんじゃないぞ」 「精霊――そんな事言ってたな」 顎に手を当て、視線を持ち上げる。 妖魔という人工生物。人間の情報をベースに精霊の要素を取り込んで作られた。昨日ミナヅキが説明していた。精霊は珍しいものと思っていたのだが、案外身近にいたようである。しかも、想像していたよりも俗っぽい。 ぱたぱたと右前足を振りながら、ギゴが笑ってみせた。 「まー、お前さんも色々大変そうなご身分だし、困った事があったら遠慮無く相談してくれよ、ゴルァ。こう見えても、教授の肩書きは伊達じゃあないんだぜ?」 ぐっと親指を立て、片目を瞑る。 風が吹き抜け、紺色の髪の毛が揺れた。顔に掛からないように、リクトは髪の毛を手で押さえる。周囲の木々の葉が微かな音を立てていた。 「ありがとうございます」 例を言ってリクトは軽く頭を下げた。 髪の毛が流れ、手で押さえる。男だった時は気にしていなかったが、長い髪の毛というものは思った以上に邪魔だった。身体を動かすたびに勝手に流れていく。 「ところでよ、リクトの兄ちゃん」 リクトの困惑には気付かず、ギゴはミナヅキたちの住む家を示した。 「ここのゴミ屋敷片付けたのは、お前さんか? 随分ときれいになってびっくりしたぞ。前々から片付けろって言ってたんだが、全然聞かなくてな」 「ええ。あんまりに酷かったんで……」 肩を落として、乾いた笑みを見せるリクト。あまりに汚れた室内を見て、何かがぶち切れ、ジュキとともに六時間で家を大掃除してみせた。冷静になってみるとかなり無茶なことをしていた。しかし、汚屋敷に住むよりは遙かにマシである。 「ふむふむ。なかなかできる男だな」 「そ、そうですか?」 ギゴの評価に、リクトは首を傾げた。 緩く腕を組み、ギゴは小難しい顔で頷いている。社交辞令ではなく、本当にできる男とリクトを評価しているようだ。 ギゴがくるりと身体の向きを変えた。地面を蹴る。猫のような素早い動きで電動カートに駆け寄り、跳躍。空中で一回転してから、運転席へと着地した。 リクトに向かって、右手を上げる。 「じゃ、リクトの兄ちゃんや。オレは仕事の続きがあるから、また今度な。あと、これも何かの縁だ。あとでコロッケ奢ってやるぞ、ゴルァ」 「はぁ……」 曖昧に頷くリクト。 ギゴはそのまま電動カートを動かし、どこかへと走って行った。 |
14/10/20 |