Index Top 第9話 橙の取材

第5章 朝のひととき


「くあぁ」
 欠伸をしながら手を伸ばす。
 窓から差し込んでくる朝の光。網戸越しに部屋に入ってくる夏の空気。
 千景は手を伸ばし目覚まし時計を掴んだ。朝六時半より少し前。目覚まし時計が鳴るより早く起きるのは昔からの習慣である。
 靄のかかったような思考。
「おはようございます、中里千景」
 声が聞こえてくる。
「あー」
 千景は気の抜けた声を上げ、身体を起こした。
 部屋の隅に身長六十センチほどの少女が立って、千景を睨んでいる。フィフニル族の少女だ。橙色の髪を肩下あたりまで伸ばし、左右白黒に別れたコートのような服を着ている。両手両足と首には木の輪が嵌められていた。妖精炎を封じる枷である。月雲の樹術を軸に作られた強力なものである。
 眠気の残る頭で、少女の名前を引っ張り出す。
「ニニルル?」
「ニニルです! 私の名前はニニルです。ニニル・ニーゼスタス・ラーザイル。何でそんな名前になるのですか!」
 声を荒げるニニル。
 寝癖の付いた頭を掻きながら、千景は笑う。
「いやー。ニとルのどっちかが続く名前だった気がしたから、両方続けニニルル、と」
「あなた本当に人の名前を覚えるのが下手なようですね」
 腕組みをして呆れ顔で言ってくる。
「うむぅ……」
 ピアたちの名前を覚えるのに苦労する理由は、全く異文化の存在であるということだ。日本人とは顔立ちも雰囲気も名前も違うため、それらが全部フィフニル族という脳の引き出しに放り込まれてしまう。
 単純に、昔から人の顔と名前を覚えるのが苦手というのもあるのだが。
「身体に異常は無いか?」
 改めてニニルを見る。
 昨日寝る時は寝間着を着ていたが、今は私服に着替えている。千景が寝ているうちに起きて、着替えまで済ませてしまったようだ。
 手足の動きや意識の動き、雰囲気など昨日と変わらない。
「ありません。お気遣いなく」
 きっぱりと言ってくる。
 欠伸をしてから、千景はベッドから足を下ろした。
「そうか。何もなければ、それに越した事はないんだけどな」
 げんなりと呻き、ため息をつく。
 千景の血を摂取したニニル。そのせいで妖精炎の出力が爆発的に増加している。自身でもおそらく制御できないレベルだ。そして副作用。ピアたちは千景の唾液などを摂取した副作用で発情したような状態となるが、ニニルはそれがない。
 もっとも今後も何もないという保証はどこにもない。
 何が起こるかも分からないのだ。
「ん、何だ?」
 ニニルの視線に違和感を覚える。
 千景に向けられた橙色の瞳。何故か感心したような光が灯っていた。
「……人間の男は、餓えたケダモノのように女性を求めるものと認識していたのですが。その反応は少し予想外ですね。面倒くさがるとは思いませんでした」
 真面目な顔で言ってくる。
「お前……それはさすがに偏見だぞ」
 頬を引きつらせながら、千景は人差し指をニニルに向けた。男女の交わりの意味をピアたちより知っているとは当人の弁である。もっとも元々自分に無いものを無理に理解したためか、過剰反応を起こしているようだった。
 肉体的欲求の薄い精霊族には時々あることらしい。
 口を尖らせ、二ニルが反論してくる。
「間違ってはいないと思いますが? それに、ネイさん以外にことごとく手を出しておいて、今更何を言っても説得力はありませんわ。機会があればネイさんにも手を出していたでしょうに」
「………」
 ニニルに向けていた指を下ろし、視線を逸らす。
 今度は反論できない。実際ピアたちの誘いは断れずに手を出しているのだ。もしネイが迫ってきたら、千景はそれを拒否できないだろう。
(そこは理性云々じゃないからな……)
 こっそりとため息をつく。
「まったく、何でこんな事になってしまったのでしょう」
「それに関しちゃ半分以上お前の自爆だと思うんだが」
 げんなりと呻くニニルに、千景は指摘する。ニニルが千景の指に噛み付いていなければ今の状況にはなっていなかった。
「………」
 無言のまま横を向くニニル。自覚はあるようだった。
 ふっと息を吐き出し、右手で顔を押える。
「しかし、これからどうしたものでしょうか?」
 妖精炎を封じられ、千景の元で暮らすことになった。準備も何もしていない状態であり、今後何をするのかも決まっていない。
「ん?」
 何か思いついたらしい。
 顎に手を当て、目を閉じる。
「んー」
 千景はベッドから降り、室内サンダルに足を通した。窓辺に歩いていき、大きく背伸びをする。もうすぐ七月だ。朝でも気温は高い。そろそろ冷房を動かすべきだろう。
 振り向くと、ニニルは一人で勝手に話を進めていた。
「これは……考え方を変えてみるできでしょうか? 理由は気に入りませんが、こうして取材対象の間近にいられるというのは、非常に大きな好機かもしれません。遠くから観察するよりも、遙かに大量の情報が手に入ります。うん」
 近くに置かれた鞄を開き、手帳とペンを取り出している。持ってきた私物は調べられたが危険物無しと判断され、何も没収はされていない。
「中里千景」
 左手に手帳を持ち、右手にペンを持った体勢で千景に向き直る。
 落ち着いた表情で瞳に意志の光を灯していた。
「まずはあなたの事を取材させていただきたいのですが」
 真っ直ぐに千景を見据え、言ってくる。
 率直に千景は応えた。
「却下だ」



 冷たいカフェオレを飲み、千景は一息ついた。
 顔を洗い髪を整え、台所に移動。ピアとミゥが朝食の準備しているのを眺めながら、千景は椅子に座っていた。朝食はトーストとハムエッグのようである。
 窓辺に浮かんでいるシゥと、壁際に立っているノア。
 テーブルの正面に浮かんでいるピアとミゥ。
 ニニルは台所全体を眺められる冷蔵庫の横に立っていた。横にはネイが並んでいる。
「こうして間近で見ると改めて思うのですが――」
 じっとピアを見つめ、ニニルが呟いた。おののいたように顔を硬くして薄く冷や汗を流している。信じられないものを見たと言った表情だ。
「何ですか?」
「司祭長のその格好、似合いすぎてて怖いです……。あちらにいる時は、知的な司祭長という雰囲気でしたのに、なんというか――あれですね。馴染んでますね、こちらに」
 言ってから、重々しく頷く。
 司祭長が料理を作るという光景。千景たちはピアがこちらの生活に適応する過程を見ていたが、ニニルはその様子を見ていない。それだけに余計に驚くようだった。
「そ、そうでしょうか?」
 胸元に手を当て、瞬きをするピア。いつも来ている白い聖職衣の上に、白いエプロンと三角巾という格好だった。既に身体の一部と思うほどに着慣れている。
「似合ってますよ。ボクたちもびっくりしてます」
 苦笑いをしながらミゥが頷いている。
 肩を竦め、シゥが続けた。
「料理から洗濯から掃除まで、何をやってもオレたちより腕は上だし。向こうにいる時は家事なんて碌にやったこと無いはずなのに、気がついたら笑えるくらいに上達してるもんな。不公平だよな……」
 以前は司祭長として暮らしていたピア。身の回りの世話をされたことはあっても、他人の身の回りの世話をしたことはない。そうヅィは言っていた。しかし、今では一人で全ての家事をこなせるほどになっている。しかもプロレベルで。
「これが、いわゆる隠れた才能というものなのでしょうか?」
 ネイが小さく呟いた。
「そういうものでしょうか?」
 困ったようにニニルが首を傾げている。
 居候するかわりに身の回りの世話をする。その約束を守るために真面目に勉強した結果なのだろう。努力に勝る才能は無しとも言うが、誰でも向き不向きは存在する。
「でも、毎日美味いもの食べさせて貰えるのは、本当に感謝してるぞ」
 バターを塗ったトーストを囓りながら、千景はピアを見た。ピアがいなかったらかなり適当な食生活を送っていたのは確実だ。
「ありがとうございます」
 照れたように頬を赤くし、ピアが頭を下げる。
 じっと千景を見つめ、ニニルがぼそりと呟く。
「何故か腹が立ちますね……」
「何でだよ」
 千景は小声で返した。

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13/11/13