Index Top 第8話 赤の来訪

第1章 迷子の妖精


 風が熱気を帯びている。
 千景は空を見上げた。青い空に沢山の綿雲が浮かんでいる。六月の初め。まだ初夏であるが、夏の暑さは既に現われていた。これからさらに暑くなるだろう。
 そんな事を考えながら、足を進める。
 ピアたちについての打ち合わせを終え、アパートに戻る最中だった。
「ん」
 千景は目蓋を上げた。
 視界に入った赤い服を着た少女。
 小さな女の子だった。小さいといっても年齢という意味ではない。身体そのものが小さかった。身長六十センチくらいである。人間ではない。
 ベンチに座って、困ったようにため息を吐いている。
「あっ」
 少女が千景の視線に気付き、顔を上げた。
 やや癖の付いたショートカットの赤い髪の毛と赤い瞳。スクエア型の眼鏡をかけて、文学少女のような雰囲気を漂わせている。白いシャツの上に赤いベストを着込み、プリーツスカートを穿いていた。真面目な事務員といった見た目である。
 横に置かれた大きめの鞄。旅行用のトランクに見えた。
 千景と眼が会い、少女が瞬きをする。
「お前……フィフニル族か?」
 そちらに脚を向けながら、千景は尋ねた。
 ピアたちと同じフィフニル族であると、見当を付ける。国内や国外でもこの大きさの者は数多い。しかしこの少女が持つ奇妙な希薄さは、ピアたちにしか見られないものだった。幻界のもであるという証明。
「あ、はい」
 少女がベンチから降りた。
 赤い粒子が集まり、背中から三対の羽を作り出す。赤い半透明の羽。縁が微かに揺らめいている。それは固まった炎のように見えた。
 どこか不安そうに眉を下ろし、訊いてくる。
「えっと、あなたは……ナカサト、チカゲさんでしょうか?」
「そうだ」
 少女の問いに、千景は素直に頷く。
 向こうはこちらを知っているようだった。千景の容姿はヅィ経由で幻界にも伝わっている。顔を知られていることについて、驚く事はない。
「はじめまして。私、ネイと言います」
 そう丁寧に一礼するネイ。
「ネイ……ネイ……」
 口元に手を当て、千景は何度かその名を繰り返した。目の前にいる少女と名前を、脳内のメモ帳に書き込む。他と混じることはないだろう。
「あいつらの知合いなのか?」
「はい」
 ネイはそう頷いてから。
 ふと、眉を下げた。
「あの……。もしかしてピアさんたち、ワタシのこと話していませんでした?」
「あいつら自分たちのことそんなに言わないし、俺も深くは訊かないからな。あいつらが向こうで具体的にどういう事になってたとかは、よく知らん」
 ピアたちは向こうの事を自分たちからはほとんど話さない。秘密というとりも、あまり他人に話すようなことではないと考えているのだろう。それについては千景も同意見であり、進んで訊くこともない。
「そ、そうですか……」
 両腕を下ろし、二十センチほど下がるネイ。
 千景はじっとネイを観察する。
「お前、実体持てるよな。あいつらに会いに来たのか?」
 ネイは自分の身体でこちらに来ているようだった。ヅィのように作り物の身体に意識を接続して実体化しているわけではない。
「はい。近状報告と業務連絡と差し入れを兼ねて来ました。ですが、こちらの地理に不慣れなので、道に迷ってしまって……誰かに訊く事もできず……」
「そりゃ災難だったな」
 苦笑いをしながら、千景は同情する。
 人界に来るのは初めてのようだった。そもそも幻界の生き物がこちらに来ること自体非常に珍しい。情報はあるだろうが、その情報の通りに動くのは非常に難しいだろう。
 千景は口元に手を当て、視線を横に向ける。
「でもな、実を言うと今日俺の所来ても、あいつらには会えないぞ。今いないから」
 そう告げた。
 顔を上げ、ネイが瞬きをする。
「はい? いないのですか?」
 気の抜けた声で訊いてくる。それは予想外だったようだ。しかし、事実である。千景の所には今、ピアたちはいない。
 千景は人差し指を東の方に向け、
「病院で検査受けてる。あいつら幻界の生物だから、普通はこっちに長期滞在することなんてないんだよ。んで、長期滞在して体調とかに問題出ないかって話になって、生態調査も兼ねて一度病院で精密検査をするってことで、昨日から出掛けてる」
 昨日から遠くの病院に泊まり込んでいるピアたち。幻界の生物を長期間こちらに置いておいて平気なのかという話から始まり、途中適当な議論を経て、健康診断と幻界生物の生態調査を一緒にやってしまおうという結論に至った。
「そ、それは……」
 頬から力が抜けるネイ。
「帰ってくるのは三日か、四日くらい先になるな」
 千景はポケットから携帯電話を取り出した。
「とりあえず――」
 アドレスを入力してから受信ボタンを押し、待つ。
 ピアたちには携帯電話を渡してあった。緊急時の連絡用である。
 待合室にいるならば出るだろう。病院での携帯電話の使用は以前は禁止されていたが、最近ではある程度は緩和されている。影響が無い事が確認されたからだろう。精密機械の多い場所では使えないが。
『はい。ミゥです』
 電話の向こうから聞こえてくる声。
「俺だ」
『あ、千景さんですか? どうかしましたー?』
 明るい声でそう訊いてくる。
 千景は横にいるネイを眺め、
「お前らの仲間の赤いの拾ったんだけど、どうしようか? お前らに会いに来たって言ってるんだけど。道に迷ったらしい」
『赤いの……って、もしかしてネイですか?』
 一拍考えてから、驚いたように言ってくる。
(言ってる事は事実だったか)
 表情を変えず、千景は納得した。あえてピアたちの名前を出さず、「あいつら」や「お前」と曖昧な言い方をし、ミゥにも「赤いの」と曖昧な表現をした。お互いの反応を観察して、ネイの言っている事が本当かどうか探る意味合もあった。
 普通に知合いらしい。
「ああ。それだ。ちょっと代わる」
 千景は携帯電話をネイに差し出した。
 それを興味深げに眺めながら、ネイが視線を向けてくる。
「それは、通信機でしょうか?」
「そんなもんだ。ちょっと大きいけど我慢してくれ……って、使い方分かるか?」
「多分」
 ネイは携帯電話を受け取り、千景を真似するように耳に当てた。人間用の道具なのでネイには明らかに大きいが、とりあえずは使えるようだ。
『もしもしー?』
「ミゥさんですか。ネイです。お久しぶりです」
 聞こえてきたミゥの声に、ネイが返事を返している。携帯電話のような遠距離通信を行う道具を使ったことがあるのだろう。さきほども通信機という単語を口にしていた。
 漏れてくる声は千景にも聞こえていた。
『本当にネイ……ですよね? 何でまた急にこっちに? 来るって話は聞いていませんでしたけど。何かあったんですか?』
「いえ、そういうわけではないのですが、急にそのような話になりまして」
 赤い眉を微かにひそめ、ネイが答える。
 ピアたちの健康診断と同じような流れなのだろうと、千景は見当を付けた。誰かが言い出して、積極的に止める理由もなく一応利益にはなるので、そのまま実行された。世の中にはそのような流れで行われる事が多い。
『あー。ヅィが何か思いついたんですね、きっと』
 電話の向こうでミゥが暢気にそんな事を言っていた。


 話し合いの結果、ネイはピアたちが戻るまで千景が預かることとなった。検査を早めに終わらせるという選択肢はないらしい。ピアたちもそれを承諾し、退魔師協会もネイが千景の元に泊まることを承諾している。
 こうなってしまっては、千景に断る選択肢はない。
 両手で鞄を持ち、ネイが丁寧にお辞儀をする。
「それでは、ふつつか者ですがしばらくお世話になります」
「よろしくな」
 微苦笑と共に、千景は片手を上げた。

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12/12/23