Index Top 第5話 黒の観察

第2章 ノアの頼み事


 窓から差し込む午後の日差し。
 千景は椅子に座って本を読んでいた。
 一度背伸びをして、目を横に向ける。
「千景さま。お願いがあります」
 人間で言うと十代前半から半ばくらいの顔立ち。四人の中で一番小柄である。肩辺りで切り揃えた黒髪は、ボブカットに似ている。機械のような無感情な黒い瞳。身体を包むのは大きな黒い長衣だった。手が見えないほど袖が長く、足が見えないほど裾も長い。
 ノアだった。いつの間にかそこにいた。
 本にしおりを挟み、机に置く。 
「お前がやって来るなんて、珍しいこともあるもんだな。お願いって何だ? 俺にできることなら出来る範囲でやるけど。時間もあいてるし」
 と、時計を指差す。休日の午後三時。特に予定もなく暇な時間だった。
 足音も無く床を歩いてくるノア。音や気配もなく移動するのは、習性のようなものらしい。引きずっている裾に埃などが付きそうだが、妖精炎で保護しているため、汚れることはないようだった。衣擦れの音もしない。
 千景の近くまで来てから、カラスのような黒い羽を広げて浮かび上がる。
 それから、口を開いた。
「自慰のやり方を教えて下さい」
 唐突に訪れる沈黙。
 あまりに突拍子もない発言に、千景は思考を停止させる。何を言われたのか、即座に把握できなかった。頭には入ってきても、思考がすぐに受け付けない。
「え?」
「自慰のやり方を教えて下さい」
 改めて言ってくるノア。同じ台詞を同じ口調で。感情の映らない黒い瞳も、表情を変えない顔も、普段と変わらない。聞き間違いではないらしい。
 強引に事実を呑み込み、千景は改めて訊いた。
「何故に?」
「知的好奇心です」
 こちらも迷わず答える。
「他には?」
 千景の問いに、ノアは初めて考える素振りを見せた。黒い瞳を右から左へと動かす。それだけだったが。変わらぬ無表情と淡泊な声音で答えてきた。
「ピア、ミゥ、シゥの三人は千景さまと肉体関係を持っています。自分もいずれそうなるかもしれません。なので、性的快感というものがどのようなものなのか、事前に体験しておきたいと考えました」
「あー、んー……?」
 千景は腕組みをして眉根を寄せ、首を捻る。
 思考の空回り。わけが分からない。理解不能。
 ピアたちは、千景と身体を重ねた事を隠すつもりはないようだった。進んで話す事はないだろうが、積極的に隠す気は無いのかもしれない。物事に対する考え方が人間と微妙に違う妖精たち。
(あまり他人には言わないように釘刺しておこう)
 顔には出さず、千景はそう決めた。
「つまり」
 一度強引に自分を納得させてから、千景はノアを見る。
「今ここで抱いてというわけではないんだな? 念のため訊くけど」
「千景さまに抱かれる理由がありません」
 黒い瞳で千景を見据え、やはり断言した。
「うん。うーん……?」
 纏まりかけていたものが、霧散していく。ノアの考えている事、やろうとしている事。分かるようで分からない。前々から理解はしていたが、千景の思考とは違う地平を生きているようだった。また、ピアたちとも少し違う思考を持っている。
 大きく息を吐き出し、千景は気弱な笑みを見せた。
「今のはお互い言わなかった事、聞かなかった事、何もなかった事にして帰ってくれるとお兄さんはとってもありがたいぞ?」
「千景さまのパソコンにある"System33"。それを秋奈さまに送ります」
 迷わず言ってくるノア。System33。それは千景のパソコンにあるシステムファイルに偽造した秘蔵データである。どのような手段で調べたのかは不明だが、ノアはその存在を知っていてる。しかも秋奈に渡すという笑えない脅迫までしてきた。
 十中八九、秋奈の入れ知恵だろう。
 千景はゆっくりと椅子から立ち上がる。
「オーケィ。そのケンカ、買った」
「何故自分を掴み上げるのでしょうか?」
 黒い長衣の襟首を、千景の右手ががっしりと握り締めていた。
 ノアを右手にぶら下げたまま、窓の前まで移動する。息を吐き出し、一拍置いてから吸い込んだ。心拍数が上がり、全身の筋肉へと血液が流れていく。身体の奥底から湧き出す霊力が、全身へと広がり、術式を組み上げていた。
「着地は自力で何とかしろよ」
 千景は窓を開けた。容量限界まで引き出した霊力による覇力の術と縮地の術。全身の筋肉が、人間ではあり得ないレベルまで強化される。
「跳んで――」
 そして左足を振り上げ、前へと踏みだした。自分自身を投げ出すような勢いで。床板が爆ぜるような音を立て、空気が唸る。腰から背中、肩から肘、手首から指まで。全ての筋肉と関節を連動させ、急激な加速度が右手に集束される。
「行ッけえええええ!」
 爆音とともに、ノアが飛んだ。


「千景さま。戻りました」
 窓が開き、ノアが部屋に入ってくる。服や髪が汚れていることもなく、疲れている様子もない。この程度でどうにかなるほど軟弱でない事は、十分承知している。
 エンターキーを押し、千景はノアを見た。
「予想したよりも遅かったけど、どこまで飛んでた?」
 強化術による遠投。漫画のように飛んでいったノア。その行き先は見ていないが、数キロは飛んだはずである。気持ちとしては、地平線の向こうまで投げ飛ばしたつもりだった。それくらい飛ぶほどの力は出している。
 飛んだ投げてから戻ってくるまで、およそ十分ほど。
「国道の近くまで飛びました。衣料品店の屋上に着地し、戻ってきました。帰路で特筆するような事はありませんでした」
「我ながらよく飛ばしたなー」
 ノアの返事にしみじみと頷く。
 アパートから国道まではおよそ六キロ。飛距離としては文句は無い。
「千景さま、何をしているのでしょうか?」
 ノアが千景の机を見る。
 千景のパソコン、その隣にノアが使っているミニノートが置かれていた。電源は入った状態で、千景のパソコンとクロスLANケーブルで繋がっている。
「データ消去」
 千景のパソコンに入っているデータ整理ソフトを使い、ノアのミニノート内のデータを検索、抽出。そこから、目的のデータを完全消去。データの上から乱数を上書きし、復元ソフトを用いても、復元できないようにする。
 おおむね完全削除も終わった所だった。
「自分のパソコンですが」
「お前が盗み出したデータは全部完全消去しておいた。他人のデータ勝手に盗むのは犯罪だから。次やったら、パソコン没収」
 ノアを見据えて、千景は薄く笑う。威嚇するように。他人のデータを自分のパソコンに無断でコピーすることは、所有権の侵害だ。見逃すわけにはいかない。
「了解」
 ノアが頷く。やはり表情は変わらず、感情も見えない、声もいつも通りの淡々としたものである。しかし、返事をするまでに数拍の間があった。
 データ整理ソフトを終了させてから、ノアのミニノートを閉じる。
 椅子に座ったまま、千景は窓辺のノアを見下ろした。
「さっきの話だが。自慰のやり方……」
 色々納得はいかないが、ノアの好奇心はとりあえず理解した。
「このまま帰したらそれはそれで何やるか分からんから、付き合ってやるよ。ただし、今回だけだぞ。あと、他の連中には言うなよ……」
「ありがとうございます」
 ノアは羽を広げて、浮かび上がる。自分が開けた窓を閉め、続いてカーテンも閉めた。遮光性の強いカーテンのため、部屋の明るさが一気に減る。
 そして、千景の膝の上に着地した。

Back Top Next

11/9/29