Index Top 第2話 緑の探求心

第7章 自縄自縛の好奇心


 音もなく、意識が覚醒する。
「………」
 普段なら目が覚めてから意識がはっきりするまで時間がかかるのだが、今回はほんの一瞬だった。時々そういうことがある。突然の事態で、即座に動かなければ致命的になるような時。見習いとはいえ退魔師という職業上、必ずあることだった。
 千景は素早く右腕を伸ばし、近付いてきた相手を掴む。
 細い腕だった。人間の三分の一程度である。
「おはようございますー、千景さん」
「ああ。おはよう」
 布団から上半身を起こし、千景はジト眼で緑色の妖精を眺めた。辺りは暗く、まだ夜明け前のようだった。時計を見ると、四時半を示している。
 ミゥの右前腕を千景の右手が力任せに握り締めていた。
「腕が痛いので、放して貰えないでしょうかー? 潰れそうなんですけど……」
「ミゥ……何しようとしてた?」
 その右手には、注射器が一本握られている。人間用の3mlで、材質はガラス製。中には薄緑色の液体が入っていた。注射器としては小さい部類に入るが、ミゥの身体と比べると大きい。銀色の針が光ったように見えた。
「千景さんが眠ってる間に、ちょっと投薬実験をー」
 笑顔のままミゥが答えてくる。悪びれる様子もない。
 開いた左手で千景の腕を剥がそうとしているが、びくともしない。筋力を高める剛力の術を込めて握り締めているので、そうそう外れるものではなかった。術の補助無しで外すには、工具などが必要となるだろう。
 千景は右手に力をさらに込める。ミゥが微かに顔を歪めた。
「その注射器は一体どこで手に入れた? 昨日買ってやった記憶は無いんだが。返答如何によっちゃ、このまま右腕が使い物にならなくなるけど」
「昨日のお姉さんから貰いました」
「没収」
 素早く注射器を奪い取り、ついでにミゥを横に放り投げる。
 しかし、床に落ちるより早く、ミゥは緑色の羽を広げて空中に留まってみせた。何も無い場所を蹴るような仕草から、勢いよく突っ込んでくる。
「ボクの注射器、返して下さい――うぁ!」
 しかし、千景が伸ばした右手がその頭を掴み止めた。妖精炎が強化されているため動きは速いが、見切れないほどでもない。
「誰が返すか!」
「あわわわ……! 放して下さいー! 痛いです――というか、本当に痛いですよォ?」
 頭を鷲掴みにされたまま、ミゥがばたばたと暴れていた。それなりに力を込めているので、痛いだろう。手の表面に爪を立てたりしているが、引き剥がす事はできない。
 注射器を左手に持ったまま、千景は窓を眺める。
「そういえば、今日は雨が降るとか言ってたな」


 午前六時十分前。
 背中から氷の羽を広げ、シゥは部屋を出る。皆が起きるよりも早く起きるのは、大昔からの癖だった。理由は自分でもよく分からない。
「ふぁーぁ……」
 軽く欠伸をして、背筋を伸ばす。
 青い寝間着姿で、ほどいた長い青髪を足元まで流していた。髪を下ろしたまま、足で歩くと、毛先が床を引きずってしまうため、移動は基本飛行である。氷の剣は専用の鞘に収めて左肩からベルトで下げていた。
 懐から銀色のケースを取り出し、その蓋を開ける。
 きれいに収められた睡草を一本取り出し――
「おはようございますー、シゥ」
 声を掛けられ、シゥは動きを止めた。
 睡草を右手に持ったまま声の主を見つめ、目を点にする。
「……何してるんだ?」
 台所の窓辺はシゥの喫煙場所だった。窓を開けて周囲の空気を少し弄るだけで、睡草の香りを外に逃がせるので丁度よいのである。
 さておき。
 窓のカーテンレールから、ミゥがぶら下がっていた。身体をすっぽり覆うように大きな白い布を巻き付けられ、カーンレールから糸で吊るされている。
「てるてる坊主という、この国の風習だそうですよ。白い紙や布で作った人形を軒先に吊るして、晴天を祈るおまじないだそうです。晴れるまでこうしてろ、と」
 吊るされたまま、ミゥが得意げに説明してきた。
 パチリと蓋の閉まる音。シゥはケースを懐に戻し、窓の外を見た。灰色の雲が見える。今日は雨が降るかもしれないらしい。
「何でお前がその『てるてるぼーず』になってるんだ? 大体見当は付くけど」
 そう尋ねながら、シゥはミゥに近付いた。
 タオルの中を覗いてみると、寝間着の上から凧糸でぐるぐる巻にしてあった。両手は後ろで縛られているらしい。首元から伸びる糸は、身体に巻き付けた糸の余りだろう。
「さきほど千景さんに投薬実験を行うとしたら捕まってしまいまして……。寝てるから大丈夫と思ったんですけどねー。今日は雨が降りそうだから、お前がてるてる坊主やれって吊るされました」
「ふーん」
 シゥは睡草を持ったまま、ミゥから離れる。
 台所を眺めながら、適当に睡草の吸えそうな場所を観察。ピアが料理中に使っていた換気扇を思い出し、そちらへと飛んでいく。
「ふーん、って……助けてくれないんですかー?」
 きょとんと声をかけてくるミゥ。
 流しまで移動してから、シゥは換気扇の紐を引っ張った。乾いた機械音とともに、空気の流れが生まれる。ついでに妖精炎魔法で周囲の空気を操り、風の流れを調整。
 睡草を咥え、先端を指で弾く。妖精炎の"火"が点いた。
「自分でなんとかしろ」
「あー。ひどいですー」
 騒ぎながら、身体をくねらせるミゥ。
 一度息を吸い込むと、甘い香りが喉から肺まで流れ込んだ。頭の曇りが取れていくような感覚。数秒睡草を味わってから、息を吐き出す。甘い吐息が空気の流れに乗って、換気扇から外に吐き出された。
 シゥは眉を下げ、睡草の先端でミゥを示す。
「大体それくらい魔法でどうにでもなるだろ?」
「さっきから頑張ってるんですけど、使えないんですよー」
 左右に揺れながら、言ってくる。
 妖精炎魔法は基本的にどんな状況でも使える。声や動作、文字や道具、必ずしもそういうものが必要というわけではない。魔法を使えば、身体を戒める糸を切るのは容易い。木綿を寄り合わせたただの糸。鎖やワイヤーではないのだから。
 だが、妖精炎魔法が使えなければ、ただの糸でも立派な拘束具だ。
「もう妖精炎封じは可能って事か。手の早い男だ」
 口元に笑みを浮かべ、氷の剣の柄に触れる。
 目を凝らして改めてミゥを見ると、身体を拘束する霊力と術式が見えた。その術式は読めないが、妖精炎を封じる効果があるのだろう。ただ、効果はあまり強くないように思える。自分やノアの妖精炎を封じるのはまだ無理だろう。
「妖精石も気付かれてますけど」
 ミゥが続ける。
 睡草を咥え、シゥは片目を閉じて苦笑した。
「……抜け目ないヤツだな」
 異界からの客人ということで、シゥたちは千景の元に居候している。しかし、千景はシゥたちを完全には信用していない。有事の時は、四人全員を自分の手で殺すことも考えているだろう。シゥが万が一の時は千景を殺す覚悟を決めているように。
 睡草の甘い香りに、そんな思考が浮かぶ。
「あのー。とりあえず、ボクを下ろしてくれると非常にありがたいんですけど」
「拘束術を外すのが面倒くさい」
 ミゥに冷めた眼差しを向け、シゥは即答した。
 数秒の間を挟んでから、
「せめてノアを呼んできてください」
「まだ寝てるって」
 と、シゥたちに宛がわれた部屋を示した。
 シゥは大抵六時頃に起きて朝の一服を行うが、ピアやノア、本来ミゥも起きるのは六時半である。この程度の用事で起こすのは、さすがに気が引けた。
 シゥは咥えた睡草の先を揺らしながら、ため息をついく。
「そもそも……お前が千景を実験台にしようとしたからだろ? 吊るされるのは自業自得じゃねぇか。てるてる坊主ならてるてる坊主らしく晴れるように祈ったらどうだ?」
「うぁー。薄情者ー!」
 喚きながら、ミゥが左右に揺れていた。

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