Index Top 第7話 夏の思い出?

第5章 翌朝、というか翌昼


「う、ぐ……」
 浩介は顔を上げた。
 窓から差し込む朝日――ではないようだった。時計に目を向けると、二時半。普通は昼過ぎまで寝ていることはないが、今日は仕方ないだろう。
「痛い……」
 全身の筋肉が軋むような悲鳴を発している。
 身体を見下ろすと一応寝間着は着ていた。ボタンを掛け違えて、下着は上下とも着けていないが、服を着る理性は残っていたようである。ただ、途中からの記憶は残っていなかった。いつ事を終えていつ寝たのかも覚えていない。
「変な匂いがする」
 部屋を見回しながら、浩介は呻いた。
 嗅覚に引っかかる臭い。あらゆる体液を混ぜたような異臭だろう。他に表現方法もないし、その表現はおおむね正しいと言える。しかもエアコンも効いていないせいで室温も湿度も高く、異様な不快感があった。
 ふと横を見ると、リリルが寝ている。
「こいつは……」
 身体は子供のものに戻っていた。破り捨てたはずの寝間着を着たまま、幸せそうな顔で眠っている。疲労した浩介とは対照的に、随分とすっきりした寝顔を見せていた。
「おい……起きろ」
 その言葉にぴくりと尖り耳が動く。
 何度か身体を左右に動かしてから、リリルは上体を起こした。両腕を真上に伸ばして、大きく欠伸をする。
「うあー。よく寝た」
「よく寝た、じゃない……」
 半眼でリリルを見つめながら、浩介は呻いた。乱れた狐色の髪を撫でつけ、尻尾を左右に動かす。尻尾を含めて、あちこちに変な寝癖がついているようだった。
「いやー、昨日は大変だったなぁ」
 何故か爽やかな笑顔を向けてくるリリル。
 脳の奥でみしりという音が聞こえる。
「あ」
 リリルの笑顔が固まった。不吉な気配は感じ取ったようである。
 浩介は無言のまま両手を伸ばし、リリルのこめかみに両拳を押しつた。
「逃げるなよ」
 そうきっちり命令してから、手首を捻る。こめかみを抉るように。手加減などせず、怒りにまかせて力一杯。見た目以上に強烈なグリグリ攻撃。
「あイだだだ! 痛い、痛イ、てか、普通に痛いッ!」
 悲鳴を上げながら、リリルが浩介の腕を掴み返してきた。何とか引き剥がそうとしているが、命令のため逃げることも腕を外すことも出来ない。痛みを表現するように尻尾がぎざぎざ模様に曲がっている。
 三十秒ほどぐりぐりを続けてから、浩介は手を放した。
 ベッドに突っ伏すリリル。こめかみを押さえて顔を上げた。
「……何すんだ」
 金色の瞳には涙が滲んでいる。
 浩介はそれを真正面から睨み返し、口端を持ち上げた。どこか影の張り付いた薄笑い。自分でも怒りがにじみ出ているのが分かる。
「それはこっちの台詞だ。昨日は死ぬかと思ったぞ?」
「あ、あー。あれか」
 リリルはぽんと手を打った。さすがに危険と察したらしい。誤魔化すように乾いた笑顔を作ってみせる。右手で後ろ頭をかきながら、
「いや、すまんな。アタシとしたことが、調子に乗りすぎてしまった。普通ならもっと丁寧にやるんだけどな。あんまり久しぶりだったせいで。うん、すまん」
 冷や汗を流しながら、素直に頭を下げて見せた。視線を逸らしたまま、尻尾を左右に揺らしている。洒落にならない状況ということは理解しているようだった。
 浩介はベッドから両足を下ろす。
 びちゃり、と。 
 足裏に感じる水の感触。
 見下ろすと、床に出来た水溜まりに右足を付けていた。それだけでなく、丸まったティッシュも十個ほど転がっている。
「水溜まり……って、昨日漏らした記憶が」
 おぼろげな記憶の中、失禁していたことを思い出し、浩介は頭を押さえた。今の心境を何と表現すればいいのだろうか。何を言っていいのか分からないし、何を考えていいのかも分からない。
 振り向くと、リリルが銀色の眉を寄せて鼻を動かしている。部屋に漂う匂いが気になるのだろう。本人曰く、浩介以上に鼻が効くらしい。
 浩介は右足を水溜まりから引き抜き、左手を伸ばした。ティッシュ箱から三枚ティッシュを引き抜き、足を拭いてから近くのゴミ箱へと放り込む。
 振り向きながら、一言。
「部屋の片付け頼むぞ。魔法使うとかしていいから」
「何でアタシが……」
 横を向きながら、口を尖らせるリリル。
 その頭をがっしと掴み、自分の方に向かせた。
「や、れ」
「はい」
 リリルは表情を強張らせて頷く。
「素直でよろしい」
 浩介は右手を放した。
 二、三度頭を左右に振ってから、近くに転がっていたサンダルに足を通す。いつも履いている室内用サンダル。幸い、こちらに被害はない。
 立ち上がってみると、予想以上に疲労が大きいようだった。全身の筋肉と関節が悲鳴を上げている。さらに、猛烈な倦怠感。眠気も再び沸き上がってきた。
 欠伸をしてから、大きく息を吐く。
「なあ、リリル?」
 振り向くと、リリルが視線を向けてきた。
「何だ……?」
 普段通りの口調であるが、隠し切れていない恐怖が読み取れる。
 浩介は尻尾を左右に振ってから、前髪をかき上げた。
「昨日言ったことを覚えているか?」
「昨日?」
 聞き返してくるリリルに告げる。
「これは貸しだからな。後で貸しは返して貰う。ってな」
 それは昨日の夜、浩介がリリルに言った台詞だった。借りと言ってもそれほど深い意味はない。それに対してリリルも頷いている。
「ああ……」
 それは覚えているのだろう。
 続けて浩介は告げた。
「もうひとつ。お前がことの最中に言った言葉」
 自分の記憶は曖昧だが、とりあえず二回戦が終わった辺りまでの記憶はある。その前にリリルを止めようとした時に、きっぱりと言ったのだ。
「後でどんな報復されようと、アタシはここで止める気はないからな――てな。言っておくが俺はしっかり聞いてたし、忘れてもいないぞ?」
「そんなこと……言ったか?」
 頬に冷や汗を流しながら、リリルが訊き返してくる。単純に覚えていないのか、知らない振りをしているのかはどうでもいい。
「言った。俺は聞いた」
 言いながら、浩介は笑った。自分でも分かるほど不気味な微笑み。
 リリルがベッドに座ったまま、少し後退る。引きつった誤魔化し笑いを浮かべていた。自分の行いをかなり本気で後悔しているようだが、手遅れなことである。
「だから、きっちり貸しは返してもらうぞ」
 浩介は釘を刺すようにそう言い切った。
 無言のまま、リリルが喉を鳴らす。
「じゃ、俺はリビングで寝てるから。部屋の掃除ちゃんとやっておけよ」
 部屋を横切り、浩介はドアを開けた。

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