Index Top キツネガミの狂騒曲

はじまり 浩介の死


 ゆっくりとブレーキを踏みながら、山道を下っていく。
 群馬県の山奥。軽自動車のハンドルを左手で握り、樫切浩介は右手を下ろしていた。免許を取ったのは高校生の冬頃、一年半ほど前。初心者マークは卒業したものの、山道には慣れていない。人がいないのが救いだった。
「正直、俺が甘かった」
 愚痴る。
 誰も聞いてないのは分かっていた。だが、声が出てしまう。
 浩介は、早瀬工科大学の漫画研究部に所属している。その顧問である木村京太郎。大学教授を務める傍ら物書きをしていて、とある古文書を欲しがっていた。それは、群馬の山奥にある大音門神社に保管されている。自分は忙しくて取りに行けないので、部員の一人にお遣いを頼んだ。
 報酬は、神聖けものみみ帝国。伝説の同人誌。
 漫画研究部十二人による大乱闘が引き起こされたことを記しておく。
 その後、くじ引きとなり、浩介がその権利を引き受けた。
「まさか、写本させられるとは思わなかったしな」
 浩介は呻く。
 古文書のコピーは禁止、写真撮影も禁止、無論持ち出しも禁止。幸いにして金銭は要求されなかったが、古文書の写しは、取りに来た人間が自力で作らねばならない。
 写本のことを告げられた時は固まってしまったが、同人誌のために承諾。写本用の本を渡され、黙々と写生すること丸二日。神社に着いたのが土曜日の昼で、今は月曜日の午後である。内容は古い神話だった。
 京太郎はこうなることを知っていたのだろう。知らないはずがない。疑う余地なく知っていた。だからこそ自分は行かず、理由をつけて学生に行かせたのだ。
「なんというか……学生に授業時間を削らせるのは、教育関係者として問題あるだろ。まともな教授だとは思ってないけどさ」
 浩介は助手席に置いてある写本を見た。
 ちょっとした厚さのある本である。ボールペンによる写しで、誤字脱字もあると思うが、読むことはできるだろう。右腕が痛い。
「もし、『完璧でないから駄目だ』とか言われたら、暴れるな、俺」
 グン。
 車が大きく跳ねる。何か踏んだらしい。
 浩介は車を止めた。
 ただ、木や石などを踏んだわけではないようである。
「動物か……?」
 嫌な予感を覚えながら、浩介は車を降りた。
 何かを踏んだ辺りに目をやる。
 普通ならば、木や石なり、動物の死体なり落ちているはずだ。
 しかし、何も落ちていない。
「気のせいか?」
 気のせいではないようである。
 何かが、そこにあった。
 透明な、紐のようなもの。
 よく見ると、それは尻尾だった。ライオンの尻尾に似ている。しかし、太さは綱引きの綱ほどもあった。どうみてもまともな動物のものではない。しかも、ほとんど透明。ガラスでもアクリルでもビニールでも氷でもない。
「何だ、これ……?」
 寒気を感じて、浩介が後退ると――
 尻尾が跳ねるように動く。
 そして、ソレが目の前に現れた。
 無色透明の怪物。背丈は人の二倍半ほど。二本足で立ってはいるが、風貌は獣のそれである。獅子を思わせる凶暴な形相に、生い茂るように伸び乱れた髪。重装甲に覆われたかのような体躯と、刃物の爪。
 しかし、全く存在感を感じさせない。目の前にいるのに、気配も匂いも音もない。輪郭だけの怪物。背景もはっきり見えるほど透明である。
 まるで幻であるかのように。
「――!」
 怪物が吼えた。
 吼えたように見えたが、声は聞こえない。空気も動かない。
 しかし、動いていた。
 後ろ足で道路を蹴り、浩介に飛び掛かる。やはり、音はない。
 身体は動かなかった。
 アスファルトの地面に背中から叩きつけられる。背骨に衝撃を受けたせいで、身体が動かない。息を吸うこともできない。痛みは感じなかった。
 浩介は状況を理解できぬまま、他人事のように怪物を眺める。現実味が感じられず、恐怖も浮かんでこない。出来の悪い夢か幻を見ているようだった。
「俺、死ぬのか?」
 怪物が大きく口を開く。
 浩介の首筋に牙が突き刺さった。首筋から胸にかけての肉が、力任せに食い千切られる。どう考えても致命傷であるが、痛みは感じない。
 そこで、浩介の意識は途切れた。

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