Index Top 一尺三寸福ノ神

第36話 最後の難関


「着いたのです」
 一樹の家の前までたどり着き、琴音は元気よく声を上げた。
 閑静な住宅街の一角にある二階建ての一軒家。
「何事もなく着いてよかったな。短い間だったが、ちょうどいい暇潰しになったわ」
 尻尾を動かしながら、一ノ葉が頷いている。
 鈴音は跨っていた背中から跳び降りた。アスファルトの上に両足で着地してから、一ノ葉に向き直る。一ノ葉がいなかったら無事に帰ってくることはできなかっただろう。背筋を伸ばして一礼した。
「ありがとうございますなのです。おかげで助かったのです」
「気にすることはない」
 素っ気なく答えてから、一ノ葉は素早く踵を返す。少し照れているようだった。それを悟られないために、背を向けたようである。
「それでは、ワシは帰るとするよ」
 すたすたと歩き出す一ノ葉。
「さよならなのです」
 鈴音はその背中に向けて右手を振った。ぱたぱたと白衣の袖が揺れる。
 唐突に風が顔を撫で、思わず鈴音は目を閉じた。一ノ葉の作っていた風除けの結界から出たらしい。猛烈な風に緋袴や白衣がはためき、黒い髪が流される。
「早く戻るのです……」
 髪を手で押さえながら、鈴音は玄関へと走った。助走を付けてから跳び上がり、玄関のドアノブへと飛びつく。体重を利用してドアを開けようとするが。
 ドアが開かない。
「あれ……?」
 ドアノブにぶら下がったまま、鈴音は硬直した。冷や汗が頬を流れていく。嫌な考えが頭に浮かんでいるが、思考がそれを認めようとしない。
 それから手を放し、玄関前のタイルへと降りた。
「そういえば、今日はお家の人はみんな出掛けているのです……」
 一樹だけでなく、両親も姉も用事で出掛けている。出掛ける前の一樹にそう言われたことを、鈴音は今更ながら思い出していた。一樹の家族は几帳面なので、家の鍵は全部閉まっているだろう。
「最後の難関なのです……」
 腕組みをして、鈴音は眉根を寄せる。家までたどり着いても中に入ることができない。誰かが帰ってくればいいのだが、それまでは外で待つしかなかった。
 声は唐突だった。
「……何をやっている?」
「一ノ葉サマ!」
 後ろから聞こえた声に、鈴音は目を潤ませながら振り向いた。
 玄関前に一ノ葉が腰を下ろしている。さきほど帰ったはずだが、戻ってきていた。心底呆れた面持ちで、鈴音を見つめている。
「嫌な予感がして引き返してみれば案の定……。ま、これも乗りかかった船だ。最後まで付き合ってやる。ワシに何をして欲しい? 出来ることならやってやるわ」
「あのベランダまで行きたいのです! お願いしますなのです、一ノ葉サマ! ワタシをあそこまで連れて行って欲しいのです!」
 鈴音は真上にあるベランダを指差した。二階のベランダ。鈴音は一樹の部屋から外に出たのだ。そこだけは鍵が開いている。
 一ノ葉は小さく吐息した。
「その程度か。鍵壊せとか言われなくて安心したわ……」
 言うが早いか、一ノ葉が動いた。今までの普通の挙動からは想像もできない、凄まじい俊敏性。跳ねるように道路を蹴り、鈴音に飛びつく。
「な!」
 驚いた時には、鈴音は宙を飛んでいた。
 一ノ葉が白衣の襟を咥え、跳び上がったと理解するのには数瞬の時間を要した。妖力による身体強化による跳躍。二階と同じくらいの高さまで、あっさりと跳んでいる。
 屋根を蹴り、一ノ葉はベランダへと着地した。
 放心している鈴音を下ろすと、ちらりと部屋を見やる。
「ここがお前の主の部屋か」
 部屋の中を確認してから、前足でガラス戸を押し少しだけ隙間を空けた。
 口をぱくぱくさせている鈴音に向き直り、
「これで大丈夫だな? ワシはこれで帰ることにする。なかなか楽しい時間だった。たまにはこういうのもいいかもしれぬ。毎日は困るだろうがな」
 そう笑ってから、一ノ葉はベランダを蹴った。三角跳びのように一樹の部屋のガラス戸を後ろ足で蹴ってから、家の前の道路に着地する。二階から飛び降りたというのに、何ともないようだった。
 ベランダの方を一瞥してから、すたすたと歩き出す。
「助かったのです……」
 鈴音はそれだけ呟いた。呟くしかできなかった。


「一樹サマ」
 一樹が部屋に戻ると、鈴音が机の上に仁王立ちしていた。
 そちらへと歩きながら、問いかける。
「鈴音、どうした?」
「これを持っていて欲しいのです!」
 差し出してきたのは、四枚のお札だった。部屋にあったコピー用紙を切って作ったのだろう。千円札ほどの大きさで、複雑な文様とともに中心に『霊』という文字が描かれていた。墨文字のように見えるものの、墨ではないようだった。
「これは、ワタシを口寄せするお札なのです。もしワタシの助けが欲しい時は、これを手で破って欲しいのです。それで術符に込められた口寄せの術が発動して、ワタシが一樹サマの所へ一瞬で移動できるのです」
 どうやら家を抜け出して苦労して戻ってきたらしい。
 そのことには気づいたが、一樹は何も言わず、札を受け取った。

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