Index Top 第7話 臨海合宿

第1章 出発の朝


 駅前の待合いベンチに座ったまま、慎一は空を見上げた。
 時刻は朝の七時半過ぎ。天気は晴れ。空にはいくつもの積雲が浮かんでいる。しかし、八月の終わり頃にしてはやや涼しい風が吹いていた。涼しいと言っても夏にしてはやや涼しいという意味で、気温は二十五度を越えている。
「夏だなぁ」
 ミネラルウォーターのペットボトルを空にしてから、慎一はしみじみと呟いた。
 青い半袖のカジュアルシャツに、黒い薄手のズボンという格好である。外出着としては普通のものだろう。屋根があるため、日差しは届かない。
「夏ですねぇ。海ですねぇ。楽しみですねぇ」
 ベンチの背に座ったカルミアが、両手で広げた小さなしおりを一心に読みふけっていた。手の平大の小さなしおりでも、カルミアの身体と比べれば十分に大きい。だが、読むのに不自由はしていないようである。表紙には『合宿のしおり』と書かれていた。
 普段持っている杖は、魔法で傍らに浮かべてある。
「どういう風の吹き回しかしら?」
 慎一は持ち上げていた顔を下ろした。
 ベンチの近くに立った結奈が、腕組みをしたまま爪先で地面の煉瓦を叩いてる。緑色の半袖メッシュジャケットに白いスラックスという格好。フォーマルカラーらしい。
 その肩には飛影が留っている。一応術で姿は見えないようにしてあった。肩乗りカラスとでも言うのだろうか、妙に似合っている。
「何で部外者のあんたが、漫研の合宿に参加するのよ。参加しちゃいけないってルールはないんだけど、あんたが参加する理由が見つからないわ」
 縁のない眼鏡を動かし、結奈が口を尖らせた。
 合宿。漫研部員によって夏の終わり頃に行われる旅行である。大抵が二泊三日、現地集合現地解散で、海と山を交互に合宿先にしていて、今年は海らしい。基本的に漫研部員しか参加しないが、費用を払えば誰でも参加出来るようで、部員が友人や家族を連れてくることもあると言われていた。
 慎一は両足を動かし、しおりに見入っているカルミアを示し、
「カルミアに海を見せたかったから」
「説得力としては弱いわね」
「説得力って何……」
 即座に言い返す結奈に、飛影がツッコミを入れている。しかし、それがさほど意味をなさいことは両者とも理解しているようで、続く言葉はない。
「本音を言えば、お前の予想してる通りだよ」
「そうねー。やっぱり、あたしの思った通りよねー。他に理由も思いつかないし」
 結奈は半ば八つ当たり気味にそう頷いていた。
 ぐるりと身体の向きを百八十度入れ替え、やってきた相手を睨み付ける。
「つまり、あんたが呼んだのね?」
「うおぁ!」
 まさに声を掛けようとしていた所でいきなり睨み付けられ、浩介が仰け反るように二歩後退した。慎一と同じくらいの年格好の男。体格は中肉中背で、英語の書かれたプリントシャツに、ベージュ色のガーゴパンツ、黒いスニーカーという出で立ちだった。慎一よりは今時の若者っぽい格好をしている。肩から提げた荷物の詰まったリュック。
「何だよ、いきなり……」
 浩介が狼狽えたように結奈を見つめていた。
 それに答えるように、結奈がずいと一歩踏み込む。ポニーテールが揺れた。
「考えたわね。あたしの制止役に慎一連れてくるなんて。確かに、この大学の面子であたしを止められるのは部長たち除けばあいつだけし、あんたが頼れそうなのもあいつだけだしね。妥当な判断だわ」
「俺だって自分の身は可愛いからな。お前が何もしないはずがないってのは、考えなくとも分かるって。お前の十八番の屁理屈も勢いも、慎一には通じないだろうし」
 腕組みをして浩介は言い切った。
 慎一がここにいるのは浩介に呼ばれたからである。身の危険を感じるから結奈を止めて欲しい、と。出来る範囲で協力するという約束もあったため、こうして合宿に参加しているのである。暇潰しとしては適当だった。
 結奈が浩介から視線を横にずらす。
「で、あんたと顔合わせるのは二度目だったかしら、悪魔っ娘」
「アタシは会いたくなかったんだけど……。特にお前には、な。こないだアタシに何したか、覚えてないわきゃないだろ?」
 心底嫌そうに呻いたのは、魔族の少女だった。
 見た目十代前半の銀髪褐色肌の少女。猫耳を模した白い帽子に、白いワンピース姿。足は裸足で白いサンダルを穿いている。変な服装だが、似合っているのは事実だった。本人の意志でこの服を着ているわけではないようだが、訊くなとも言われたので慎一が口を挟むこともないだろう。
 一回だけ顔を合わせたことのある、シェシェノ・ナナイ・リリル。
「少しは口を慎みなさい。お嬢ちゃん?」
「うっせ」
 余裕綽々の結奈と、牙を見せて威嚇するリリル。結奈の肩に留った飛影が、両翼を広げて首を振っていた。苦労しているらしい。
「ところで、日暈」
 浩介に声を掛けられ、慎一は目を動かした。聞かなくとも言いたいことは分かる。さきほどからずっとカルミアを見ていたのは気づいていた。
「カルミア」
「はい?」
 声を掛けられ、しおりを下ろす。
「あ」
 そこで、ようやく二人に気づいたらしい。今まで熱心にしおりに読み入っていて、周りのことは意識の外に締め出していたようだった。
 幸せそうな笑顔の浩介と、やや投遣りに手を挙げているリリルを見つめ、一度瞬きをする。それから、慎一の差し出した手にしおりを渡してから、背筋を伸ばした。
「えと。はじめまして、カルミアです」
 やや緊張した口調でそう言ってから、一礼する。
「シンイチさんから話は聞いていました。コウスケさんと、リリルさんですね。旅行に誘って貰いありがとうございました。よろしくお願いします」
「いやー。気にすることはないよ」
 後ろ頭を掻きながら、浩介が答えていた。照れたような不自然な笑顔で、声が心持ち上ずっている。可愛い仔猫などを見ような表情だった。
 その姿を胡散臭げに見つめながら、結奈が口を挟む。
「何、鼻の下伸ばしてるのよ」
「いや、何でもない……」
 慌てて顔を逸らす浩介。だが、カルミアに見取れていたのは否定しようのない事実だった。可愛い妖精というものは珍しいだろう。
 カルミアは浩介の横で明後日の方向を向いているリリルに目を移した。
「リリルさん。ひとつ質問いいでしょうか?」
「何だ?」
 金色の瞳にあからさまな警戒の色を浮かべ、リリルが訊き返す。最初に慎一と会った時もカルミアのことを警戒していた。妖精と魔族の相性が悪いとは聞いている。あまり積極的に関わり合いたくないのだろう。
 それを知ってか知らずか、カルミアが尋ねる。
「リリルさんは、何故こちらに来てるんですか? 魔族は人間の大勢いる所に来ることは滅多に来ないって聞いたことありますけど」
「んー、まー……な。アタシの私的なことだ。気にしないでくれ」
 今までの態度を消し、リリルは視線を泳がせながら曖昧な答えを口にした。尻尾が不規則に揺れている。他人には言えない、というか言いたくない事情があるらしい。
「そうですか」
 カルミアもそれを察したのか、続けて訊くことはしない。
 結奈がちらりと時計を見やった。電車の来る時間まで後七分。平日の朝で通勤時間にも重なっているため、人通りは多い。無数の人間が歩いている。
「ところで姉ちゃん」
 飛影が呟いた。結奈と一緒に時計を見ながら、
「凉子さんはまだ来ないのかな? 今日海行くの楽しみにしてたみたいだし、このまま来ないと置いてっちゃうことになりそうだけど。どうしよう? 待つ?」
「凉子、さん?」
 声を上げたのは浩介だった。猫神の風無凉子。この辺りを担当する死神一族宗家の次女だった。浩介の教育担当で、結奈と仲が良いという話を聞いてる。
 結奈がきょとんと瞬きをした。
「あれ、言ってなかった?」
「うん」
 こくんと首を縦に動かす浩介。初耳らしい。
 結奈は眼鏡を動かし、結奈は青い空を見上げた。手短に答える。
「あたしが海に行くって話したら、自分も行くとか言い出したんだけど、、断る理由もないから、一応浩介の親戚って登録しておいたわ。昨日の夜連絡あって、待ち合わせよりも先に行っているとか言ってたけど」
 普通に忘れていたのか、わざと隠していたのか、その口調から読み取ることはできない。だが、後者であることは簡単に想像できる。
「なあ、慎一」
 浩介が静かに口を開いた。今までの気楽なノリではなく、やや思い詰めたような口調だった。何を考えているかは、いちいち考える間でもない。
 カルミアや飛影、リリルが一緒に見つめてくる。
「仕事増えるかもしれないけど、頼む」
「分かってる」
 浩介の言葉に、慎一は短く答えた。小さくため息をついておく。
 結奈がこっそりと、だが聞こえよがしに舌打ちしているのが見えた。

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