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第21話 あんパンの罠 前編 |
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ある晴れた日の昼だった。 「これは……」 行く先もなく散歩をしてサキツネは、ふと足を止める。 天候晴れ、東よりの風弱し。閑静な住宅街の一角である。サキツネがいるのは、住宅地と商業地の境目辺りだろう。周囲に人の姿はなく、静かなものだ。 車の通らない二車線道路の中央。その中央に、忽然と置かれている。 「あんぱん?」 あんぱんだった。 白いお皿に載せられた、丸いパン。ほんのり茶色い表面と、黒胡麻。紛れもなくあんパンだった。そこらのスーパーやコンビニなどでも売っている、標準的なあんパンである。それ以上でも、それ以下でもない。 「何故あんパンがこんな所に……? テーブルの上ならともかく、何故道路のど真ん中に置かれている? 誰かが落としていったとも思えない」 どう考えても不自然な置かれ方。 あんパンの前に腰を屈め、サキツネは狐耳と尻尾を動かし、首を捻る。平穏な住宅街。このあんパンが無ければ、何の変哲もない光景だった。しかし、無造作に置かれたあんパンが、その日常を不可思議なものへと変貌させている。 周囲に異常が無い事を確認してから、サキツネはあんパンを拾い上げた。 「匂い異常無し、周囲異常無し。いただきます」 そのまま、食べる。 ちょっと乾燥した皮と、しっとりと甘味を帯びたこしあん。毒が入っているわけでもなく、腐っていたりするわけでもない。味は至って普通だった。 三口ほどで食べ終えてから、軽く息を吐く。 「はうッ!」 サキツネは前のめりに倒れた。 狐耳と尻尾を勢いよく伸ばし、道路に飛び込むように突っ伏す。後ろから突き飛ばされたかとも思ったが、それは違った。いきなり前から引っ張られたのだ。 それだけでは終わらない。サキツネの身体が前に進み始めた。 咥内の違和感。 「今のあんパンか」 口の中に何かが引っかかっている。針や鈎、刃物類ではないらしく、痛みはない。だが、どういう原理か、何かがサキツネの口を引っかけていた。容易には外れそうにない。 ズリズリと道路を引きずられながら、サキツネは両手を動かした。 「うグッ! 油断一瞬、怪我一生……!」 口から伸びる糸に触れる。細い糸の感触はあるが、触れている糸がほとんど見えない。注意してようやく光の線が見えるほどの極細だった。蜘蛛の糸並。しかし、サキツネの身体を引っ張って千切れないほどに頑丈である。 サキツネはその場に跳ね起き、両手で糸を掴んだ。 歯を食い縛り、両足を前後に開き、綱引きのように力任せに糸を引き返す。 「うぐぐぐ……ぐっ! なんという怪力……ッ!」 拮抗は一瞬。サキツネは引っこ抜かれるように前に倒れた。 糸の主が手応えを感じたのだろう。糸を引く力が増していた。両手で糸を掴んだまま、サキツネは仰向けのまま道路を引きずられていく。事情を知らなければ、そういう遊びに見えるかもしれない。 糸の持ち主がどこの誰かは分からない。何が目的かも分からない。 とりあえず今分かる事は。 「おおおお……」 ゴン。 鈍い音、そして目蓋の裏に星が散る。ぴんと尻尾が伸びてから、萎れるように倒れた。引っ張られる勢いのまま、電柱に激突。それほど勢いはないが、コンクリの塊に顔から突っ込むのは普通に痛い。 「うー……」 身体が横にずれ、電柱の横を引っ張られていく。 サキツネは左手で顔を押えた。鼻の奥が痺れて、目元からうっすらと涙がこぼれる。鼻血などは出ていない。放っておけば痛みも消えるだろう。 直接口を引っ張られるのは痛いので、右手は糸を掴んだままだった。 改めて左手を口に入れるが、引っかかっているものの正体は分からない。それっぽいものが口にある感触は無いのに、何かが思い切り引っかかっている。色々と奇妙だった。 「外れな――」 メゴ。 今度は歩道ブロックだった。四角いコンクリートに顔面からぶつかり、顔面を支点にして前のめりに一回転。背中から道路に落ちる。驚く暇もなく、今度は仰向けのまま引きずられていく。 「痛いし……」 理不尽なものを覚えつつ、サキツネは背中に手を伸ばした。もぞもぞと武器庫を漁る。 糸を右手で掴み、引きずられる。かなり無茶な出来事だが、慣れてしまえばある程度の余裕はできる。力に逆らっていなければ、それなりに手足の自由は利くのだ。 武器庫から取り出したナイフを、糸に這わせる。 「くっ」 返ってきたのは、予想以上の強度だった。 「斬れない。何これ? すごく頑丈……」 刃の根元のヤスリ目を擦り付けてもびくともしない。本当に蜘蛛の糸のような細さ。だというのに、強度は異常だった。数ミクロンほどの太さなのにワイヤー並の強度のある特殊繊維の噂を聞いたことはある。だが、そういう代物ではないだろう。 「あ」 サキツネは黄色い目を丸く見開いた。 糸がブロック塀と道路標識の隙間を通っている。 メコ。 つっかえた。。 予想していた通りの――予想外の事態に、サキツネはばたばたと手足を動かした。肩の辺りがしっかりと間に挟まってしまい、前へと進まない。しかし、糸はサキツネを引き寄せようと、引く力を増していく。後ろに下がって抜けることもできない。 「うぐぅ――!」 容赦なく口を引っ張る怪力。首や背骨が軋むような音を立てている。ぞわりと尻尾の毛が逆立った。背筋を撫でる淡い恐怖。このままだとどこかが壊れる。ブロック塀か、道路標識か、自分か、はたまた糸か。 サキツネは背中の武器庫に手を突っ込んだ。 「おらああッ!」 鈍い破裂音が数発。 根元を撃ち抜かれた道路標識が真横に倒れる。どこかが壊れるなら、どこかを先に壊すしかない。サキツネの右手に握られたデザートイーグル。.44マグナム弾四発に、道路標識が引き千切られていた。周囲に人がいなかったのは幸いだろう。 「助かっ――てないし!」 身体を戒めていた一方が壊れ、サキツネは再び糸に引かれて進み出した。もう引きずられることはなく、立ったまま糸に逆らわず走る。 そこで気付いた。 糸の向きが持ち上がっている。今までは真横だったが、今は四十五度くらいになっている。糸の持ち主に近付いているようだった。 「いた――」 正面に見える十階建てのマンション。屋上の縁の腰掛けている人間の姿が見えた。釣り竿のようなものを持っている。それで、サキツネを釣っているらしい。色々と納得の行かないものが思考を横切った。 その瞬間、さらなる力で糸が引かれる。 「い! ぃ、いぅ!」 物凄さまじい勢いに、サキツネは思わず全速力で走り出した。銃を片付け、両手で糸を掴んだまま。 それも十数メートルほど。 糸の角度が持ち上がり、地面から足が離れる。糸の向きに従い、サキツネはなすすべなく真上に引っ張り上げられた。エレベーターのような勢いで、上昇していく。目の前を真下に流れていく、マンションのベランダ。 窓に映る街と空の風景は、きれいだった。 やがて、糸の勢いが遅くなり。 止まった。 青い空が少し近くなっていた。それを堪能する余裕もない。 長い釣り竿から伸びた糸が、サキツネを宙ぶらりんに吊り下げている。 そして、屋上の縁に腰掛けて釣り竿を握る女。 「あれ……?」 サキツネを見つめて、瞬きする。 年の頃は二十代前半くらいで、骨太の体格だった。肩下まで伸ばした黒髪に、おとなしめの顔立ち。もみあげに赤い髪飾りを付けている。白のジャケットと青いプリーツスカートと服装はシンプルだった。両手で三メートルくらいの黒い釣り竿を握っている。 釣り下げられたサキツネ含め、全てが場違いとも思えるこの状況。 黒い瞳でサキツネを見つめ、女が口を開いた。 「いつだったかの、狐……」 「誰?」 その反応に、サキツネはただそう訊き返すしかなかった。 |
11/5/23 |