Index Top 第9話 橙の取材 |
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第8章 来た! |
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椅子に座ったまま、千景はコップの水を飲んでいた。 日は暮れ、窓の外は夜の闇が訪れている。夕方八時。 脱衣所にかけられたカーテン。元々付いていたものではなく、新しく取り付けた大きなカーテンである。その向こうではピアたちがやや遅めの風呂に入っていた。 「お前は一緒に入らないのか?」 テーブルの向かい側に目を向ける。 椅子の上に小さな椅子を乗せ、ニニルが手帳に何かを書き込んでいた。 やや遅れて顔を上げる。千景に向けられる橙色の瞳。 「私は一人で入ります」 素っ気ない返事だった。ピア達は風呂に入る時は全員で一緒に入っている。時間やお湯の節約かとも思っていたのだが、そうではないらしい。単純に風呂は皆で入るものという考えがあるようだった。文化的な背景によるものだろう。 しかし、ニニルはピアたちと一緒に入ろうとはしない。 肩をすくめ、小さく笑う。 「別に他人に見せられないものがあるというわけはありませんわ。大勢で一緒にお風呂に入るというのが、苦手なだけです。昔は平気だったんですけど」 「向こうは大衆浴場っぽいものが主流なんだろ?」 単純に疑問に思い、千景は思ったことを口にした。妖精郷では大きな浴場施設で身体を洗うのが一般的らしい。以前ピアがそう話していた。 ニニルは一度目を閉じ、首をかしげる。 「そうですね。こちらで言う銭湯のようなものが主です。お金は取られませんけど。規模の大小はありますが、皆で集まって一緒に身体を洗う場所ですわ」 ピアたちの説明から千景が想像したものと、そう違わないだろう。 ニニルが他人と一緒に入らない理由は、人間の文化の影響だと千景は見当を付けた。精霊が人間の文化に影響されることは、よくある事らしい。中途半端に知った際は潔癖症な方向に振れるが、落ち着いて文化を受け入れると、おとなしくなる。 「あなたは一緒に入らないのですか?」 「何でだよ――!」 不意に放たれた言葉に、千景は思わず言い返していた。 「私たちフィフニル族の感覚ですと、知り合いが一緒にお風呂に入るのはなんら不自然な事ではありませんわよ。こちらの言葉で言うなら裸のつきあいというものですわ」 橙色の瞳を千景に向け、頷く。からかうように。 顔を引きつらせつつ、千景は手を左右に動かした。否定するように。 「こっちじゃ男女一緒に風呂に入るってのは一般的じゃないんだよ」 以前、シゥとミゥに一緒に入らないかと誘われてたことはある。しかし、千景は一回も頷かなかった。相手は人間ではないとはいえ、女の子と一緒に裸で風呂に入る事には、さすがに抵抗がある。 「別にいいじゃないですか。減るものでもありませんし。混浴という男女で一緒に入る風習もあるのでしょう?」 「お前の知識ってなんか偏ってるよな」 他人事のように言ってくるニニルにジト目を向ける。実際他人事だが。 「あまりこちらに来ることはありませんからね」 横を向き、口元を隠した。手で口元を隠してはいるが、隠す気はないらしい。目元や口元が笑っているのがはっきりと分かる。 「まあいいや」 軽く咳払いをして、千景は時計を眺めた。 「大体一日がたった」 ニニルの口元から笑みが消える。 「見た限り変化は無い……」 千景の血を口に入れてから、一日とおよそ五時間が経った。妖精炎の爆発的な増大はあるが、今のところ体調に変化はない。自覚が無いという可能性もあるが、少なくとも外から見て分かるような変化はない。 「そうですわね。私も違和感などはありませんわ」 右手を持ち上げ、手のひらを見つめる。一度手を握って、開いた。 「何もないなら、それに越した事はないんだけどな」 身体を横に向け、千景は一度目を閉じる。 千景の体組織をフィフニル族が摂取すると、妖精炎の強化が起り、副作用で発情したような状態が起こる。だが、それはあくまで唾液など密度の薄いものを摂取した場合だ。二ニルのように血を摂取した場合、何が起こるのか見当が付かない。 「単純に発情するだけなら、まだ対処は楽だ」 愚痴るように続ける。何が起こるかはある程度想像は付く。だが、いきなり血を欲しがって千景に襲いかかってきたりりしたら、傷つけずに捌ききれる自信はない。 ドアの開く音から、ピアたちが脱衣所に移動している。。 「そ、そうですわね……」 「?」 擦れた声に、千景は目蓋を上げニニルに目を戻した。 テーブルに頬杖をつき、明後日の方向を見つめている。顔が赤く染まり、呼吸が少し乱れていた。頬に滲む薄い汗。素知らぬ風を装ってはいるが、隠しきれるものではない。 「おい」 声をかける。 ニニルは千景に向き直り、愛想笑いとともに手を動かした。 「いえ、大丈夫です。ちょっと身体が熱くなってきた――だけ……」 言い終わるより早く、顔を強張らせ、両腕で身体を抱きしめる。衝撃をこらえるように。実際それは衝撃だったのだろう。凄まじい感覚の爆発。 考える間も無く、千景は動いていた。 「封!」 両手で素早く印を結び、ニニルの枷に術を送り込む。妖精炎の増幅に反応し、枷の拘束術が発動した。さらに、千景の放った術が拘束の調整と強化を行う。 ジジッ…… 木の焦げるような音を立て、ニニルの背中から六枚の羽が顕現した。 しかし、その形は酷く不安定である。羽の形に固まらず揺らめいていた。拘束術のせいで濃く顕現できるほど制御できていない。羽は椅子の背を突き抜けている。 「おい、千景!」 脱衣所のカーテンを引っぺがし、シゥが飛び出してきた。 服は着ていない。素肌にブラジャーとショーツという格好だ。服を着る余裕は無かったようである。右手に抜き身の氷の大剣を構えていた。 「何だこれは? もしかして――」 台所に満ちる妖精炎の圧力に息を呑みつつ、ニニルを睨み付ける。何が起こったかは察したらしい。剣を握る右手に力がこもった。青い瞳に映る冷たい殺気。 「大丈夫だ。押さえ込んだ」 千景は右手で制する。 シゥは切先を少し下げた。だが、警戒は解かない。 一拍遅れて飛び出してきたネイ。身体にバスタオルを巻き付けていた。 「ニニルさんっ! 大丈夫ですかっ!」 「な、なんとか大丈夫です、わ。身体が、熱いですけど――」 擦れた声で強がりを言いながら、ニニルがネイを見る。両手で身体を押さえ、荒い呼吸を繰り返していた。まるで熱病に浮かされたようでもある。 「ついに来てしまいましたか、凄い妖精炎圧力です……。しかし、これほどの妖精炎を完全に封じ込めている拘束具の力は、さらに凄まじいものですね」 厳しい顔で、ピアが呟いている。こちらもネイと同じくバスタオルを身体に巻き付けている。裸で出歩かない良識はあるようだった。 「とりあえずは、コレに感謝しますわね……!」 片目を閉じ、皮肉るようにニニルが笑った。半開きの口元から、涎が一筋こぼれ落ちる。火照った肌と乱れた呼吸。その姿はひどく扇情的だった。 「これが、人間の術ですか――」 苦しげなニニルと、その身体を戒めている木の輪。 ピアが銀色の瞳で見つめているのは、そこから展開される拘束術だった。妖精炎の発生そのものを妨害し、発生したものは不安定な羽の顕現という形で外に逃がす。 微かな布擦れの音とともに、ノアが歩いてきた。 感情の写らぬ黒い瞳でニニルを見つめ、読み上げるように言葉を紡ぐ。 「第六型拘束術。このような状況では、拘束が壊されるのが王道なのですが、予想に反して二ニルの妖精炎をほぼ完璧に押さえ込みました。でたらめな暴走は無いと判断します」 「お前……何か残念そうなのは、俺の気のせいか?」 ジト目で千景は尋ねる。 ノアは千景に目を向け、一言答えた。 「気のせいです」 「………」 無言で見つめ返すが、答えはない。 最後に出てきたのはミゥだった。バスローブのような寝間着をまとっている。急いで着込んだのだろう。襟元が乱れ、あちこちが濡れていた。 「どうしますー、ニニルさん。苦しそうですね、顔真っ赤ですよー? ボクの見立てでは強烈な発情発作ですね。幸い、それ以外の副作用は出ていないようですけど」 両手で身体を抱きしめ、苦しげに震えるニニル。身体に表れている副作用は発情発作のみ。千景の唾液を摂取した場合よりも、数段強烈のようだが。他のものは出ていないようである。少なくとも、想定していたいくつかの結果の中では、一番無難なものだろう。何も起こらないのが最善だったが、そう上手くはいかない。 楽しそうに笑いながら、ミゥは手で千景を示した。 「千景さんにお願いして身を任せちゃうのが楽だと、ボクは提案しておきますねー」 「一人で、何とかします……!」 眉を傾け、ニニルが言い返す。 「一応訊いておくけど、一人でどうするのか、知ってるよな?」 「し、知っていますわよ……!」 千景の呟きに、顔を真っ赤にしながら言い返してきた。興奮や火照りからくるものではなく、羞恥によるもの。男女の意味についてはピアたちよりも知っていると言っていた通り、その手の知識は多いのだろう。 「ニニルさんがそう言うのなら、それもいいかもしれません」 両腕を広げ、ミゥが苦笑した。 ニニルはよろめきながら椅子から下り、千景の部屋の入り口へと歩いていく。テーブルの横を通り過ぎ、ピアたちの前を通り、ドアの前へと。ドアは半分開けてあった。 「では、中里千景……。しばらく、部屋を、借り――ますわ、よ……」 「ああ」 千景は頷く。 ニニルは力ない足取りで部屋へと入った。これから何をするかは考える必要もない。こうなってしまっては収まるのを待つか自分で収めるか。それを詮索するほど、千景の神経は図太くなかった。 千景は椅子から立ち上がり、ドアを完全に閉める。 「いいのか?」 「そっとしておいてやれ」 警戒心むき出しのシゥに、そう告げた。 |
13/12/18 |