Index Top 第8話 赤の来訪 |
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第6章 新たなる住人 |
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時計を見ると短針が十を差していた。 千景は広げていた本とノートを閉じる。部屋の電気は消してあり、常夜灯のオレンジ色の淡い光が部屋に広がっていた。 「相変わらず、寝付きいいな……」 床に直接敷いてある小さな布団で、ネイが眠っていた。 赤い寝間着に着替えて、小さな寝息を立てている。フィフニル族の性質なのかそのような訓練を積んでいるのかは不明だが、異様に寝付きがよい。そして一度眠ったら簡単には起きないらしい。 「…………」 ネイの横に屈み、その顔を見つめる。 きれいな顔だった。精霊種特有の整った顔立ち。身体の小ささも含めて人形のようだった。身体が小さいため幼い印象を受けるが、ネイの外見年齢は二十歳くらいだろう。ピアたちよりやや背が高く大人びいた雰囲気を持つ。 もっとも外見年齢と実年齢はほとんど一致しないのも精霊の特徴である。 ピアたちの実年齢も聞いていないのだが。 千景は無言でネイの頬を撫でた。柔らかく滑らかな皮膚。薄い唇にそっと触れる。 「ん……」 不意に、ネイが目を開けた。 ネイの唇に触れたまま固まる千景。 一度寝たら簡単には起きないはずである。だが、ネイはあっさり目を覚ました。赤い瞳を千景に向けている。 何も言わぬまま千景は指を離した。 「千景さん?」 枕元に置いてあった眼鏡を掛け、ネイは身体を起こした。傍らに屈んでいる千景を見つめてから、千景が触れていた唇を撫でる。 「これは……もしかして、夜這いというものでしょうか?」 「いや、そういう――」 視線を逸らしながら、千景は曖昧に口を動かす。 しかし、ネイは頬を赤くしながら千景を見上げていた。 「あの、千景さん。ワタシ……こういうのは、初めてなので……できれば優しくしていただけるとありがたいです」 ゾクリ―― と、背筋を駆け抜ける灼熱感。理性に亀裂が走るのを半ば他人事のように自覚する。 千景はネイの目の前に人差し指を差し出した。 「ちょっとこれ見ろ」 「はい?」 訝るネイに構わず、指を動かす。空中に紋章を描きながら、術式を組み上げる。人間の用の術でも、フィフニル族にはある程度効果がある。それは経験から分かっていた。 「幻術・夢落とし」 放たれた術が、ネイの意識を止める。ぱたりと仰向けに倒れた。掛けた相手を眠らせる幻術である。絶対に起きないような深い眠りではなく、普通の睡眠状態へと。 睡りについたネイに布団を掛け、千景は立ち上がった。 乾いた唇を舐め、みぞおちを押さえる。喉の渇きと、胃の奥から若き上がるような灼熱。身体の奥底から湧き上がる情欲。いや、それとは微妙に違う感覚。 前々から薄々思っていた事がある。 「やはり、か……」 ネイの寝顔を眺めながら、千景は苦笑とともに呻いた。 「ネイ、お久しぶりです。お元気でしたか?」 「はい、変わりなく。みなさんもお元気そうで何よりです」 ピアの言葉に、ネイが笑顔で応える。 健康診断と生体調査を終え、千景の所に戻ってきたピアたち。久しぶりに顔を合わせたネイは嬉しそうにピアたちを見つめている。ピアたちも嬉しそうに表情を緩めていた。ノアだけは変わらずに無表情だが。 「そういや、他の連中はどうしてる?」 シゥの問いに、ネイは苦笑しながら、 「相変わらずです。みなさん、元気にしていますよ」 その答えに、満足そうに頷いているシゥ。妖精郷には共に災厄に立ち向かった仲間がいるのだろう。その中で最禁忌を犯して追放された四人。妖精郷に残して来た者たちを心配しているのは当然のことだった。 小さく息を吐き、千景は呟いた。 「じゃ、俺はこの辺で」 「どうしたんですか、千景さん?」 きょとんとミゥが訊いてくる。ピアやシゥ、ネイも不思議そうに見つめていた。ノアは淡々と千景を見つめている。 千景は時計を眺めた。午前十時。 ぱたぱたと手を振りながら告げる。 「俺はしばらく空けるよ。親しい友人同士、積もる話も色々あるだろうからな。夕飯の前には戻ってくる。それまでは好きにやっててくれ」 「お気遣いありがとうございます」 ノアが無感情に、そう呟いた。 午後四時半。 玄関を通り、台所に移動する。 「千景さ〜ん! おかえりなさいマせ〜!」 千景の前に現われたのはミゥだった。緑色の羽を広げて、空中に浮かんでいる。しかし、雰囲気がいつもと違う。頬は赤く染まり、妙に楽しそうな笑みを浮かべていた。微妙に言葉もおかしい。有り体に言って、酔っていた。 「と、ゆーわけで、これをどうぞ!」 いきなり目の前に突き出されるコップ。中には青汁のような液体が入っていた。青汁のような生易しいものではないだろう。間違いなく薬品だった。 「遠慮なんかせずにぐいっといっちゃって下さイ!」 「……何だこれは?」 若干引きつつ尋ねる千景に、ミゥは自身満々に言い切った。 「お薬デス! ボクが調合しましタ! でも、効果はボクも分かりませンッ!」 「誰が飲むか」 「では! 一番、ミゥ、飲みまス!」 躊躇無く一気飲みしようとしたミゥから、慌てず騒がず千景はコップを奪い取った。それをテーブルに置いてから、ポケットから凧糸を取り出す。流れるような動きで手早くミゥを拘束し、さらにハンカチで猿ぐつわを噛ませた。仕上げとして妖精炎封じの術で魔法を封じてから、椅子の上に寝かせる。 「むー!」 うねうねと悶えるミゥを放置し、千景はピアたちの部屋に入った。 そこに広がる光景に、思考を止める。 部屋の隅っこに体育座りをしているシゥ。 「ふふ、くっ。やっぱ、オレってダメなんだよなー。愛想もねーし、礼儀作法もてきとーだし、ヤク中だし、ケンカしか能がねーんだよ……ふふふはははは……」 全身に影を纏いながら自虐的な笑みを浮かべ、ぶつぶつと呟いている。 一方、ネイを前にピアが真顔で語っている。 「隠し味というものは、何でも入れればいいというものではありません。特に市販品の調味料を使う際は注意しなければなりません。あれらは既にほぼ最適な味付けにしてあるので、下手に隠し味を入れると味のバランスが崩れてしまうのです」 どうやら料理についての技術論のようだった。こちらも頬を赤く染めて、銀色の眼に熱い意志を灯し、真顔で口を動かしている。しかし、その瞳はネイを捉えてはいない。 「何だ、この惨状は?」 わけがわからず呻く。 「千景さま」 視線を向けると、気配もなくノアが立っていた。ノアだけは変わらずに無表情で無感情な様子である。何かおかしな部分は見られない。 が、おもむろに小さなスケッチブックを取り出し、マジックペンを走らせる。書いた文字を千景に向けた。どこか得意げに。 『勝ったッ! 第三部完!』 「意味わからん――!」 千景の率直な言葉に、ノアはスケッチブックをしまった。 「ネイ……」 猛烈な疲労感を覚えながら、千景はネイに声を掛ける。少なくともネイの見た目は普通だった。ネイ自身ピアたちの様子にかなり戸惑っている。それはまともな証拠だ。 「これは一体何があったんだ?」 台所で拘束されているミゥ、部屋の隅っこでネガティブになっているシゥ、ひたすら家事についての持論を語っているピア。聞き手のネイがいなくとも、それを気にしてはいないようだった。ノアはいつもと変わらないようでかなりおかしい。 ネイは視線を泳がせながら、 「ワタシがあちらから持ってきたお酒を飲んだら、みなさん……なんといいますか……ええと、凄く酔っ払ってしまって……。これほど酔うほどの量は飲んでいないのに……」 見ると、小さな酒瓶がひとつ転がっていた。宴会というものではなく、簡単な息抜きのつもりだったのだろう。飲んでも軽く酔う程度の量。 しかし、ピアたちは見事に泥酔していた。 千景は一度目を閉じ、数秒して開く。 「体質が変わってるんだよ。こっちの環境に適応したせいで、向こうのものを口に入れると以前とは違った反応を起こす――とか調査書に書いてあった。いきなり実物見られるとは思わなかったけど……」 環境の変化による体質の変化。さきほど退魔師協会から見せられた調査結果だった。ピアたちは人界に長い間いたため、体質が変化してしまっている。身体に問題が出るようなものではなく、幻界に帰ればすぐに元に戻るようなものだ。 その状態で幻界の飲み物を口にし、過剰な反応が起こってしまったのだろう。 不安げなネイを見やってから、 「ま、何とかするか」 千景は右手を持ち上げ、霊術の術式を組み始めた。 実際のところ、対処は簡単である。酔いのせいでほぼ無防備状態だったピアたち。幻術で眠らせるのは容易い。起きた頃には酔いも覚めているだろう。 地下が窓の外を見ると、夕刻の紫色の空が見えた。 「あと、千景さん。ひとつお話があるのですが」 「何だ?」 声をかけられ、ネイに向き直る。 赤い羽を広げて空中に止まっているネイ。赤い視線をどこへとなく動かし、両手の指を絡ませている。何やら言いにくいことがあるようだった。 それから一度頷き、真面目な口調で言ってくる。 「諸事情により、しばらくこちらでお世話になります」 「……」 「ふつつかものですが、改めてよろしくお願いします」 そうネイは頭を下げた。 |
13/2/7 |