Index Top 兄来る - To dear my Sister -

第1章 兄の名は銀一


「我が妹よおおお!」
 満面の笑顔で飛びついてくる狐神の男に対し……
 慌てず騒がず、白鋼は一歩踏み込んだ。爪先から足を通り、腰へ。腰から背骨を通り、肩へ。肩から右腕を通り、右拳へ。きれいに流れていく運動エネルギー。
 お手本のような正拳が男の鳩尾にめり込んだ。
「―――!」
 笑顔のまま吹っ飛んでいく男。開けっ放しの玄関から外へと飛び出し、地面に落ちてからさらに三回転して、止まる。普通なら気絶するほどの威力だが、
「銀歌ァ!」
 男は即座に跳ね起きた。
 開いていた距離を一息に詰め寄ってくる。見た目二十代前半の若い銀狐。身長は百九十センチに届くだろう。紺色の袴に矢絣模様の白い着物という恰好だった。今の白鋼と同じような恰好である。
「なぜだ! なぜ兄であるボクに対して、挨拶もなしの正拳突き! ボクが何かお前の気に入らないことをしたとでもいうのか!」
「落ち着いてください、銀一くん。僕は白鋼ですよ」
 頭を押さえ、白鋼は呻いた。
「手紙に書いたでしょう? 銀歌くんの身体でも魂は白鋼だと。ま、読んでいないというか忘れていたというか、君ならどちらもありえますが……」
「うむ?」
 腕組みをして、首を傾げる銀一。
「そういえば、そんなことが書かれていたような気がする」
 銀歌の双子の兄、銀一。今は尻尾一本だが、本来は尻尾四本。地位は三級位で、腕の立つ医者でもある。十五年ほど前に、神格を手に入れ妖狐から狐神になったらしい。敬史郎の友人だ。
「それで、白鋼さん。ボクのMy sister銀☆歌はどこにいます? いや、楽しみだな。二十年前に妖狐の都を出奔して以来、一度も会ってないからなぁ。どんな美人になってるのかなぁ? きっと物凄い美人になってるんっだろうなー」
「いえ、その『銀歌』は目の前の僕なのですが。何です……My sister銀☆歌って?」
「おお、そうでした」
 ぽんと手を打つ銀一。
「では、新しいMeine Schwester 銀歌はどこにいますか? 身体をデザインしたのは敬史郎さんなんだから、物凄い可愛い女の子なんだろうなぁ。あー。想像しただけで、天にも舞い上がるような気分だ。はっはっは」
「ドイツ語で言わなくてもいいです。銀歌くんなら、寝ていると思いますよ。まだ六時半ですからね。起きるのはいつも七時ですし」
 白鋼は時計を示した。
 銀歌のことを知っている者は少ない。白鋼、葉月、敬史郎、空魔、東長など……。その中に銀一は含まれていなかった。だが、身内には知る権利があるという敬史郎の強い意見で、銀歌のことを知らせることとなった。そして、今日来るようにと連絡したのである。白鋼の手紙を敬史郎が直接手渡した。
 朝一に来ることは予想のうちである。
「うむ。寝顔を見に行こう」
 上機嫌に靴を脱いで、上へと上がり、スリッパを履く。
「その前に、白鋼さん」
「何でしょう?」
 何か思いついた様子の銀一に、訊き返す。
 今でこそ元気であるが、事実を知るまでは、妹を失って酷く落ち込んでいたらしい。敬史郎が手紙を届けた時は、やつれて寝込んでいたと言う。敬史郎も絶望した友人を放っておけなかっただろう。
 そんなことを思いながら、白鋼は着物の袖に手を入れた。
「あなたの身体は元は銀歌のものです。だから、ボクのことは是非『お兄ちゃ――」
 ゴシ。
 白鋼の取り出したハンマーが、銀一の顔面にめり込んだ。工務店に売っている杭打ち用のハンマー。ゴムでもプラスチックでもなく鉄製、ヘッドの重さは三キロ。無論、人の顔に向かって叩き付ける代物ではない。
 ぽてりと崩れ落ちる銀一。
 だが、即座に跳ね起きる。
「うおおおああああぁ! 顔面が陥没するほど痛い!」
「鼻血だけで済んでるのが不思議です」
 ハンマーを袖にしまい、白鋼は冷静に呟いた。剛力の術などは使っていない。それでも、顔面が陥没するほどの力で殴ったはずである。人間ならば、即死だろう。
 懐から取り出したチリ紙で鼻血を拭き取り、銀一は得意げに胸を張った。
「素人とは鍛え方が違います」
「相変わらず無駄に頑丈ですね、君は……。まあ、いいでしょう。本人に会わせてあげるので、大人しくついてきて下さい」
 歩き出す白鋼の後ろを素直についてくる銀一。
 廊下を歩き、銀歌の部屋の前まで移動する。銀歌と書かれた札の書かれた扉。
「どうぞ」
「ぎ、ん、かあああああッ!」
 ドアを開け、叫ぶ銀一。
 しかし、布団は空だった。寝間着が横に脱ぎ捨ててある。
「……いない」
「逃げられたようですね。あれほど騒げば気づくでしょう。銀歌くんは君に会いたくないと言っていたので、もう部屋にはいないと思いますが……探しますか?」
「無論!」
 言うなり、銀一は銀歌の布団に顔を近づけた。
 くんくんと布団や寝間着の匂いを嗅いでから、周囲に視線を巡らせる。獣族は鼻が利く。とはいっても、それは人間などに比べてであり、野生動物には敵わない。
「分かるんですか?」
「ふむ。甘いな、銀歌……この兄を謀ろうなどと」
 顎に手を当て、キザっぽく微笑む。
 銀一は毛布を引っぺがし、布団を払いのけ、さらに畳を弾き飛ばす。床板にきれいに四角い隠し扉が作られていた。こっそり作ったのだろう。
 銀一は扉を跳ね上げ、床下の空間に右手を突っ込んだ。
「ぬああ!」
 床下からの悲鳴。
 銀一は勝利の笑みを浮かべ、引き抜くように腕を持ち上げ、立ち上がった。
 巫女装束の襟首を掴まれたまま、宙吊りにされている銀歌。身長差があるので足が床についていない。床下に隠れていたせいで、埃がついていた。
「よーう、あにきー。ひさしぶりだなー」
 諦めの表情で、棒読みの挨拶。
 じっと見つめること数秒。
 ふにゃりと銀一の表情が緩んだ。
「銀歌あああああ!」
「ぎあああああ!」
 叫びながら、銀歌を両腕で抱き締める。銀歌は逃げようともがくが、がっしりと拘束されて逃げられない。ぱたぱたと千切れるほどに尻尾を振りながら、顔からあらゆる液体を滝のように流し、銀歌に頬ずりをする銀一。
「うはー。かーいいよ。もー、ホント。ああ。ちっちゃくて軽くて柔らかくって暖かくってすべすべで、あーもう。子供の頃の銀歌そのまんまじゃないかぁ! 敬史郎さん、あなたのセンスに感謝しますよ! ちょっと毛の色が変わっちゃってるけど、一切問題ないッ! むしろ巫女装束が死ぬほど似合ってるから、Good! 赤い首輪がとってもチャーミングッ!」
「白鋼えええッ! 助けてくれええ!」
 ガゴン。
 銀一の頭にハンマーが突き刺さった。
 さきほどより強い力で、銀一の頭へと叩き付ける。普通の相手ならば頭蓋骨陥没してもおかしくない力であるが、骨の砕けた手応えはない。
 それでもさすがに意識を失い、倒れる銀一。
「ありがとう。助かった……」
 腕から抜け出し、銀歌は礼を言った。ハンカチで頬についた色々な液体を拭き取りながら、銀一を目で示す。割と本気で言ってきた。
「ついでだから、トドメ刺してくれないか?」
「殺人は犯罪ですよ」
 ハンマーを袖にしまい、白鋼は答える。

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