Index Top 第3話 銀歌の一日

第5章 敬史郎の妻


「こんにちは、風歌さん」
 目の前に佇む女性。
 銀歌は息を止めて、その女性を見つめた。
 小柄な身体の猫神。人間年齢二十代前半。背中の中ほどまで伸びた黒髪と黒い猫耳。柔和そうな顔に、穏やかな微笑みを浮かべている。桜色の清潔な着物とエプロンという格好で、鮮やかな黒い尻尾をぴんと立てていた。
「……誰?」
 一度深呼吸をしてから、隣の敬史郎に尋ねる。
 楠木神社から神界へ続く途中にある敬史郎の屋敷。白鋼の屋敷ほど大きくはない。行動範囲は、楠木神社と敬史郎の屋敷まで広がった。それより外には出られない。
 銀歌が立っているのは、十畳の洋間。古びた板張りの中央に四人用のテーブルが置かれている。隣の台所との間に、仕切りはない。
「誰って……俺の妻だ」
「敬史郎の妻の瑞樹です」
 挨拶をしてくる。
 風歌とは偽名である。真正直に銀歌と名乗るわけにはいかない。
 銀歌はぎこちなく笑ってから、再び敬史郎に尋ねた。
「ギャグ?」
「何を言っているんだ? ギャグでもジョークでもない。瑞樹は正真正銘俺の妻だ。二十五年前に結婚して、娘も一人いる。きれいな尻尾だろ?」
「……そっちかよ」
 銀歌は瑞樹の尻尾を見つめた。
 黒い毛に覆われた瑞樹の尻尾。ゆらゆらと揺れている。文句なしにきれいである。尻尾のない女に存在価値はない、とまで言ったが誇張ではないらしい。
「おやつ用意しておきました。カステラですよ」
「ありがとう」
 礼を言って、敬史郎はテーブルに向かう。
 昼食を食べ終わり、銀歌は敬史郎の屋敷に連れて行かれた。東屋を改造した教室で、中学一年生の数学を解かされること二時間。とりあえず全問正解だったが、中学生の数学くらいで間違っていられない」
「風歌、早く来い」
 敬史郎に呼ばれて我に返る。
 敬史郎と瑞樹が並んで座っていた。
「そういえば、霧枝はどうした? 見かけないな」
「お昼前に出かけたきり帰っていませんね。友達と一緒にまたどこかで遊んでいるのでしょう。夕方には帰ってきますよ」
 二人の話を聞きながら、銀歌は椅子に座った。
 目の前にはカステラが四切れとお茶が用意してある。
「それでは、いただきましょう」
 ぱんと手を叩く瑞樹。
 銀歌は敬史郎の前に置いてあるカステラを眺めた。
「で、敬史郎。それは何だ?」
「俺のカステラだが、どうかしたのか?」
「明らかに多いだろ!」
 敬史郎のカステラ。大皿に四本。四切れではなく、まるごと四本。切らずに置いてある。銀歌や瑞樹の十倍はある。間食という量ではない。
「この人はたくさん食べるんですよ」
 尻尾を揺らしながら、瑞樹が笑う。この量を食べるのを何とも思っていない。二人にとってカステラ四本は異常なことではないのだろう。
 ふと自分がおかしいような気分になり、銀歌は首を振った。ばしばしと顔を叩いてから、耳と尻尾をぴんと伸ばす。呑まれてはいけない。
「おかしいだろ! 絶対に」
「問題ない」
 敬史郎がカステラを掴んだ。
 口を開けて、ばくばくとカステラを食べていく。四口しか食べなかったはずだ。銀歌にはそう見えた。だが、カステラは半分になっている。明らかに食べたはず以上の量がなくなっていた。食べかすもこぼしていない。
「……どういう食い方してるんだ?」
「コツがいる」
 言ってのける敬史郎。具体的には何も分からない。理解しようとするのは無理なのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。
「風歌さん。食べないんですか?」
 両手でカステラを手に取り、瑞樹が言ってきた。
 慌てて頷き、銀歌はカステラを掴み口に運ぶ。ほんのりと甘い。
「しかし、何でそんなに食うんだよ」
「仕事柄体力がいる。数日飲まず食わずの不眠不休での山中訓練などザラだ」
 一本目を食べ終わり、敬史郎は答えた。
 銀歌は眉根を寄せた。
「お前……どんな仕事してるんだ?」
 土地神の仕事は、担当する土地の治安維持と管理。敬史郎が言ったような無茶苦茶なことはしない。ある程度の強さは要求されるが、何日も連続で戦うことはしない。
「俺は神界軍第十師団副師団長、参謀長兼長距離砲撃手長だ」
「え?」
 一瞬言われた意味が分からなかった。
 神界軍。神界の神殿が保持する軍隊だ。軍団より小さく、旅団より大きい。構成人数は五千人。神の数は少ないので、人間の軍隊よりも規模は小さい。その副師団長を務めるには、相応の実力と政治力が要求させる。
 ずらずらと知識を並べてから、銀歌は慄いた。
「お前、何者だよ?」
「俺は敬史郎だ」
 きっぱりと答えてくる。
「……そういうことでなくてな」
 このように答えてくることは予想していた。しかし、本当に答えてくるとは思わなかった。普通は思っても答えない。
「この人は自分を鍛えるのが好きなんですよ」
 瑞樹が代わりに答えた。誇らしげに敬史郎を眺めながら、
「勉強や修行や鍛錬が好きなんです。自分をどこまで高められるか試してみたいと、昔言っていました。だから神界軍に入ったんですよ」
「でも、三級位の土地神が副師団長になれるものなのか? 異例の大出世じゃないか」
 銀歌はカステラを齧りながら、敬史郎を眺めた。
 副師団長になるには、準二級位ほどの地位が必要である。銀歌の知識にはそうあった。三級位で三百年ほどしか生きていない敬史郎が、おいそれとなれるものではない。
「世の中は実力だ」
 敬史郎は断言した。
「そうだけどなぁ――」
「力、技術、知識、経験、知略、運。全てが実力だ」
「言ってることは間違いないけど、お前が言うと胡散臭いのは何でだ?」
 表情も口調も雰囲気もいつもと変わらない。いつものことと言ってしまえば、いつものことであるが、白鋼に似た胡散臭さを感じる。
「そういえば、風歌さん」
 瑞樹が声を上げた。

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