Index Top 第8話 夢は現実、現実は夢 |
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第4章 死神は蝶とともに |
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蝶はふわふわと羽ばたきながら、近くの壁に触れる。 と、壁が消えた。まるで手品のように壁が薄くなり、人一人通るのに十分な大きさの穴が開く。壁の向こうに見えたのは、コンクリート剥き出しの四角い通路だった。 「――何をしたんです?」 両手と尻尾で乖霊刃の柄を握り、凉子は尋ねる。 この蝶は敵ではないようだが、かといって安全な相手でもない。ここは夢の中。やろうと思えば、物理法則などに縛られず、かなりの不条理を実行できるはずだ。実際この蝶を動かしている者は、触れただけで壁を消してしまっている。 現実にある身体の方に攻撃されればそれまでなのだが。 「壁を無くしました。ここではかなり自由が利きますので」 「えっと、慎一さんのお知り合いでしょうか?」 凉子は蝶を見つめる。蝶から感じられる微かな術式。この蝶は夢の世界に現実から介入している接点のようなものだろう。動かしているのは、慎一の知合いの退魔師と凉子は見当を付けた。そう間違った推測ではないはずだ。 「そんな所です」 蝶が羽ばたきながら、上下に動く。頷いたらしい。 凉子は乖霊刃から手を放し、蝶を掴むように手を伸ばした。だが、蝶は羽ばたきながら手の届かない位置まで後退してしまう。触られたくないらしい。 おとなしく手を引っ込めつつ、尋ねる。 「で、何で蝶なんです?」 「最近蝶の折り方を覚えたので」 当然とばかりに答えてくる蝶に、凉子は目蓋を落としつつ、 「そういう意味じゃなくて……。何で作り物の姿なのか、という意味です」 「あ。そっちの意味でしたか。私の意識の本体を送り込むには、ここはまだ浅い所ですので。もっと深部に行ってから、本体を仕掛けます。それまでは、目眩ましを兼ねてこの折り紙の蝶を使っています。接触点代わりなのでさほど自由は効きませんけど」 何を言っているのかは、正直なところよく分からなかった。 とりあえず分かったことは、この蝶を動かしているのは幻術を得意とする者だということである。使っている術は相手の意識に入り込む高度な幻術だろう。そういう術があるというのは凉子も知っていたが、実物を見るのは初めてである。 「目的は何でしょうか? 私に何をしろと?」 「この夢の仮想世界のどこかにいる、鬼門寺智也さんを探します。それを手伝って下さい。あなたが一番注意が薄いですし……何よりも乖霊刃を持っていますからね」 「これですか」 凉子は腰に差した三本の乖霊刃に目を落とす。 死神の標準装備であり、魂と生死を斬る特異な刃物。武器としても十分使えるが、そちらはおまけである。凉子は自分の一振りに加えて、死神業を引退した親類のお古を二振り買い取り、三刀流を実行している。現在、お古二本の代金返済中だった。 「乖霊刃ならば、ここにある大抵のものは簡単に斬れますし、壊せます。ここでは障害物に対して、あなたが一番強いですから、私のパートナーに選びました」 「そうなんですか」 凉子は右手で刀を抜き、軽く振った。手応えもなく壁がさっくりと斬れる。文字通り、豆腐でも斬るような呆気なさ。 「にァ……?」 あまりの切れ味の良さに、凉子は思わず自分の得物を凝視する。 切先の付いた剣鉈のような乖霊刃。刃渡り二尺四寸。外見通り構造は鉈に近く、切れ味はさほど良くはない。だが、冗談のように壁を斬ることができた。 「実物じゃないのに……」 反りの無い刀身を見つめ、凉子は猫耳を動かす。これは実物と同じものであるが、実物ではない。それでも、乖霊刃として働いているようだった。 「実物でなくとも、凉子さんは死神としての神格は持っていますからね。その神格が夢の乖霊刃を、実物の乖霊刃として動かしているんですよ」 「詳しいですねぇ」 右手に乖霊刃を持ったまま、感心する。 死神でない者が乖霊刃を使っても頑丈な刃物でしかない。死神としての神格が乖霊刃の魂を斬る力となる。その仕組みを知っている者はそう多くはない。蝶を動かしている者が死神でないならば、相当な高位の術師だろう。 凉子はコンクリートの通路へと踏み出しながら、 「鬼門寺さんはどこに、い――ィ?」 いきなり、身体が右に引っ張られた。 見えない力に流がされるように、身体が壁にぶつかる。咄嗟に受け身を取ったおかげでダメージは無いものの、何が起こったのかは分からなかった。壁に押しつけられたまま、浮かんでいる蝶を見つめる。 「ここは重力の方向が右に九十度変わっています。気をつけて下さい」 「先に言って下さい……」 ジト目で呻いてから、凉子は壁に手を突いて身体を起こした。仕組みが分かってしまえばあとは簡単である。床になった壁に足を付き、立ち上がる。 右手に刀を持ったまま後ろを見ると、九十度傾いたホテルの廊下があった。 次の瞬間、そこが崩れる。壁だけでなく、廊下の風景まで一枚の絵のように。空間から剥がれ落ち、床へと消えてた。五秒も経たず、ホテルの廊下が消える。 「あらら……」 左手を伸ばしてみても、ホテルの廊下の痕跡すらない。 残ったのは、前後に伸びるコンクリートの通路に、凉子と蝶だけだった。 「ここでは現実の常識というものは通じません。逆に、こちらも現実の常識に縛られない行動が可能です。ただ、現実離れしすぎれば、それだけ安定性が薄れますけど」 「幻術空間みたいなものですか?」 「そんなところですね」 凉子の言葉に、蝶は頷いた。頷いたような気がした。 幻術によって意識の中に作られる仮想世界。現実ではないため、そこではあらゆる制約が無くなる。その反面、制約が無くなるほど、制約で仮想現実を留めていられないため、強制力も減ってしまう。文字通り実体感が夢のようなものだ。 「幻術はあんまり好きじゃないんですよねぇ……。掛けるのも掛けられるのも」 両肩を落としてから、凉子は振り向く。 先程までまっすぐだった廊下が十メートルほど先で十字路になっていた。いつ廊下が変化したのかも分からない。音も振動も気配すらなく、景色が変わる。 「これは、幻術ではなく、邪術の一種ですけど」 訂正してくる蝶。 似たようなものす、とは言わないでおく。言っても無駄だろう。 凉子は気になっていたことを口にした。 「結奈たちがどこにいるか分かります? 慎一さんと結奈と、リリルと飛影くんは多分大丈夫と思いますけど……カルミアと浩介くんはさすがに一人だと危ないんじゃないでしょうか。こういう異常事態は慣れていないでしょうし」 「そうですね……」 蝶が少しだけ浮かんでいる高さを上げた。 意識をここから現実世界へと向けているのだろう。術を使っているのか別の誰かと話しているのか、それを知ることはできなかった。 乖霊刃の切先でぷすぷすと壁に穴を開けつつ、反応を待つ。 五秒ほどしてから、答えてきた。 「慎一とリリルさん、結奈さんとカルミアさん、あと浩介さんと飛影くんが一緒ですね。それぞれ二人一組で行動しています」 「って。私、仲間はずれ……」 猫耳と尻尾を垂らし、凉子は口を尖らせる。七人で二人組を作れば、一人余るのは必然だ。しかし、自分がその一人になるのは、あまりいい気分ではない。 「鬼門寺さんも、凉子さんの事は計りかねていたようですね。だから、様子を見るために一人にしたようですけど。まさか死神とは思っていなかったでしょう。その方が私としても都合いいですから、利用させて貰いますよ」 じっと見つめてみても、折り紙の蝶から表情を読むことはできない。それでも、その口調から笑っている気配が伺えた。企みが成功したような、不敵な微笑み。 「鬼門寺さんはどこにいるんですか?」 凉子の問いに、数拍の間を挟んでから、 「夢の中枢……のような場所ですね。そこは私が探しますので、凉子さんはその手伝いをお願いします。具体的に言うと、障害物の排除と露払いをして下さい」 蝶が乖霊刃を示した、ような気がした。魂と生死を斬る刃。だからこそ、『夢』という曖昧な世界に対して非常識な破壊力を持つのだろう。 凉子は口元を引き締め、蝶を見やる。 「分かりました。中枢の方向は?」 「今のところは、前方十時半の方向ですね……」 蝶の頭が、左斜め前方に向かう。上下左右、方向という概念が曖昧な世界のため、目的の方向も一定ではないようだった。面倒である。しかし、方向は分かるようなので、行き先を見失うことはないだろう。 凉子は右手の刀を尻尾に持ち替え、両手で残りの二本を抜く。 「一気にやっちゃっていいでしょうか?」 「どうぞ」 その返答に。 法力を全身に溜めながら、左足を前に突き出す。凉子は三本の乖霊刃を構えた。三つ巴をかたどるような構え。それぞれの刃が法力を帯び、飛燕の術を装填する。飛燕の術を三重に組み込み、そこに手を加えた特殊な術式から、発動の言葉を口にした。 「三刀飛燕・百八煩悩鳳!」 三刀が閃き、白い法力の刃が螺旋を描いて空を斬る。 コンクリートの壁を紙のように粉砕しながら、飛燕の螺旋が道を作り上げた。長さは数百メートルにも及ぶだろう。砕けたコンクリートはどこへとなく消えている。三刀飛燕を撃っても、これほど大きな破壊は起こらないはずなのだが。 「なんか……凄いんですけど……」 「これは、私が想像していた以上の効果ですね」 凉子と蝶は、それぞれ驚きの言葉を口にする。 |