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第9話 酸っぱいニシンの缶詰 前編


 俺の親友に旅行作家がいる。
 日本や世界のあちこちに出掛けていき、その旅の様子を文章にして雑誌などに掲載している。俺のような完全なフィクションの小説書きとは違う、アウトドアな男だ。今は北欧諸国を旅しているらしい。
 そして、そいつは旅先で買った土産物を俺に送ってくるのが好きだ。
「……土産物というよりも、嫌がらせかなーとか思うことは多々あるけどな。訳の分からないものよく送ってくるし」
 テーブルに置かれた、両手で持てるほどの小さな段ボール箱。
 アルファベットが書かれたラベルが貼られているが、俺は英語が苦手なので何と書かれているかは分からない。どうやら英語でもないっぽいので、読むのは無理。
 一応日本語のラベルも貼られていた。生もの注意。
「何だよ、生もの注意って……?」
 とりあえず、ガムテープを剥がして中身を確認、と。さすがに中身確認しないまま捨てるわけにもいかないしね。
 ガチャリ
 唐突にドアが開いた。
「おや……」
 ごく普通に帰宅するような雰囲気で、狐の少女が入ってきた。
 見た目十代半ばくらい。実年齢は知らない。癖の付いた狐色の髪の毛と、いまいちやる気の感じられない黄色い瞳。痩せ気味の身体に緑色のセーラー服を着込み、黒いオーバーニーソックスを穿いている。謎の狐っ娘サキツネ。
 サキツネは履いていた革靴を脱ぎ、スリッパに履き替えてから、台所を横切り、至極当然とばかりに、テーブルの向かいの席に腰を下ろした。
「さて、と」
 俺はポケットから取り出したカッターナイフで、段ボール箱に蓋をしているガムテープを切っていく。多少古いカッターなので、切れ味はいまいち。
「お兄さん」
 サキツネが口を開いた。
 俺は段ボール箱を開ける手を止め、目を向ける。
「ツッコミは無しですか?」
「めんどいから」
 サキツネの問いに、俺は手短に解答した。
 狐耳と尻尾と垂らしながら、サキツネがちょっと寂しそうに肩を落とす。図太い神経してても、全く構ってもらえないのは寂しいらしい。
 五秒ほどで立ち直り、サキツネが段ボール箱を見る。
「何これ? 食べ物の気配……」
「さあ? 俺も中身聞いてないからな。あいつから送られてくるものって、中身見るまで分からないし。食い物だったら半分くらい食わせてやるから、大人しくしてなさい」
「らじゃ」
 サキツネは椅子に座り直し、両手を膝に置いて背筋を伸ばした。こいつは食い物が関わると、やたら聞き分けがよくなる。いや、食い物に関係する執念が凄いというか、普段どんな食生活してるんだろう?
 ともあれ、俺はガムテープを全部取り、段ボール箱を開ける。
「ん? 何だコレ、缶詰?」
 中には梱包材と一緒に、ビニール袋に入った缶詰が収められていた。赤と黄色のド派手な色遣いで、何故か微妙に膨らんでいる。
 すっごくイヤな予感……。
 俺はこわごわとビニール袋入りの缶詰を取り出し、テーブルに置いた。微妙に膨らんでいると思ったが、外に出してみるとかなり膨張していることが分かる。
「これは……?」
 サキツネが珍しそうに缶詰を見ていた。黄色い瞳に好奇心の光を点し、ぴくぴくと狐耳を動かしている。外国の缶詰ってのも初めて見るのかもしれない。
 だが、こいつの神経はそう無邪気なものじゃない。
「Surstromming……」
 缶詰に記された文字を、俺は静かに読み上げた。スウェーデン語である。スウェーデン語は英語以上に知らないものの、この単語だけはたまたま知識として持っていた。
 Surは「酸っぱい」を意味し、strommingは「ニシン」を意味する。
 直訳して酸っぱいニシン。その缶詰。
「シュール……ストレミング?」
 サキツネが俺の呟きを繰り返した。
「ほほぅ、これが――あの……」
 ぱたぱたと尻尾を動かしながら、興味津々な眼差しで缶詰を見つめている。口元から涎が一筋こぼれ落ちていた。
 怖いもの知らずなヤツめ……。
 シュールストレミング。言わずと知れた世界一臭いと言われる缶詰である。発酵中のニシンを殺菌することなく缶詰にした代物。内部で発酵が進み、発生したガスによって缶が膨らむ。話には聞いたことあったけど、実物を見るのは初めてだ。
「よりによって、こんな危険なもの送ってくるとは……」
 俺はカッターで缶を密閉していたビニール袋を切った。
 途端。
「うッ!」
「むぅ……!」
 俺とサキツネは同時に鼻を押えた。
 もわっと音がしそうなほどに濃い臭気が台所に広がる。くさいとしか形容しがたい強烈な臭いだ。数日放置した生ゴミのような、魚が腐ったような――後者はまさに的確な表現だろう。とにかく、目に染みるような強さ。
 まだ蓋開けてないってのに、この威力かよ……!
「捨てよう」
 俺は至って冷静に、そして即座にそう判断した。
 が、ビニール袋内にあった缶詰が無くなっている。
 背筋を駆け抜ける悪寒。ぞっとして目を動かすと、サキツネが缶詰を取り出していた。左手で缶詰を押えたまま、右手に持った缶切りを――
「ストォォォプ!」
 グリ。
「ウゴッ」
 俺の手の甲に缶切りが突き刺さった。缶詰を掴むように突き出した右手に、サキツネが缶切りを突き立てている。いや、缶詰を開けようとしたサキツネを、寸前の所で止めたと表現するのが正しいか。何にしろ、痛い……!
「お兄さん、大丈夫か?」
 あんまり心配してない口調。
 缶詰を手元に引き寄せ、俺はサキツネを睨み付けた。
「なぜごく当たり前に開けようとしている……!」
「漢は出された料理を拒んではならない」
 狐色の眉を傾け、腕組みをし、渋い口調で断言してみせる。
 どこのヒートガイだ……。
 左手でサキツネから缶詰を守りつつ、俺は右手の傷を舌で舐めた。そんなに深い傷じゃないから適当に消毒して絆創膏張っておくだけで治るだろう。
 それよりも、手に臭いが染みついている……。
「石鹸で落ちるか?」
 開けてないのにこの凶悪な臭気。もし開けたらどうなるんだ、コレ……?
 確か室内で開けるのは非推奨、てか危険で無謀。外で開ける時も風下に人がいないことを確認するような臭いである。少なくとも、ここで缶詰を開けたら、俺は数日中にこのアパート追い出されるだろう。
「サキツネ、お前本当にこいつが食いたいのか?」
「食べたい」
 黄色い目に熱い意志を灯し、サキツネは缶切りを突き出してくる。
 食う気満々だァ!
「お前、凄いなぁ……」
 俺は思わず感心していた。
 世界一臭いとも言われる缶詰。それを前にして怖じ気づく様子もなく、進んで食べようとしている。その勇気は感服せざるをえない。思い出す限り、サキツネは調味料だろうと賞味期限切れていようと、腐りかけていようと何でも食べてしまうので、今更シュールストレミングが怖いと言うこともないのだろう。
 俺は缶詰を左手に持ち、椅子から立ち上がった。
「いいだろう……。ただ、ここで開けられると困るから、外に行こう。あと、開けたらお前が責任持って全部食えよ?」
「無論」
 瞳に刃物の輝きを浮かべ、サキツネは力強く頷いた。

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