大して困った様子もなく困っているトアキに対して、俺は首を捻るしかなかった。
「どうしようと言われてもなぁ。俺にもよく分からないってのが、正直なところだし。専門知識も何もないし……。答えようがないって」
言いながら問題の猫に視線を飛ばす。
ジュースを飲んでいるニャルルゥ。遣い魔の猫。いや、猫の遣い魔だったか？ ……どっちでもいいけど。実際に火を起す魔術まで使っていた。俺の理解の範疇を超えた存在だけど、否定しても仕方ないので存在は受け入れることにしよう。受け入れて困ることもないだろうし。
ふと思い出して、俺はトアキを見やった。
「そういや、何でナツギのヤツは呼ばなかったんだ？」
俺たち三人は小学生の頃からの付き合いである。それぞれ厄介事に出くわしたら、三人集まって相談することが多い。同じく小学生の頃からの付き合いであるフユノは参加することもあるし、参加しないこともある。
「今ナツギ大変だから……」
笑いながら、視線を逸らすトアキ。ジュースをコップ半分まで飲み干した。口元は笑いながらも、目付きは笑っていない。
「だよな。言ってみただけだ」
半笑いを浮かべながら、俺も同意する。
ナツギは同人ゲーム創作で絶賛修羅場進行中だった。今週末が締め切りらしく、最近はろくに眠っていないと言っている。目に隈は出来ている上、ただでさえ細い身体がさらに細くなっているようだった。さらながら亡者のような姿である。
……さすがに呼べない。
「でも結局――追い出すか、飼うかのどちらかですよ？ トアキさん」
皐月がトアキに視線を向け、そう言った。
言葉を濁しても、結論はそこに行き着く。ニャルルゥを家に置いておくか、外へと放り出すか。この二択以外に選択肢はない。トアキもそれは理解しているだろう。ただ、その決断を出せないだけだった。
「待て」
ニャルルゥが挙手するように右手を持ち上げる。目蓋を半分下ろして、紫色の瞳で皐月を見つめる。引っかかったことがあったらしく、不満そうに問いかけた。
「何でそこで『飼う』って表現なんだ？」
「猫だから」
あっさりと答える皐月。
「トアキさんの所に居着くにしても、人の姿のまま居るのは無理だと思いますよ。女の子連れ込んでるなんて、普通に考えて通報ものですから。でも、飼い猫としてトアキさんの家に飼われるのは可能だと思います」
「やはり、そうなるか……」
顎に手を当てて、ニャルルゥは薄茶色の眉を寄せる。皐月の言うことは紛れもない正論だった。そして、ニャルルゥ当人にもその自覚はあったようである。
ぴくりと猫耳を動かしてから、囁くように口を動かした。
「あたしとしては、この姿のまま契約して欲かったんだけどな」
「というか、何で他の魔術師当たらないんだ？ いちいちトアキの所に居着かなくとも他の魔術師に養って貰えばいいんじゃない？」
今更ながら俺は根本的な疑問を口にした。
元の主が居なくなったとしても、知り合いの魔術師くらいはいるだろう。野良猫になるよりもその魔術師を頼った方が、平穏に生活できたはずである。
しかし、ニャルルゥは両手を横に広げて首を振った。
「あたしはマスターの癖が強く出た遣い魔だから、マスター以外の魔術師を契約相手にできないんだよ。他人の魔力は身体に悪いんだ。決してマスターに友達や知り合いがいないといわけではないので。それはあの人の名誉のために言っておく」
語気を強め、眉毛をＶの字にして断言する。どんな人物なのかは知らないが、マスターとやらを敬愛してるのは理解できた。
「なら、何でボクに契約を？」
と、自分を指差しトアキ。さすがに、困惑している。
俺はケーキを口に入れた。甘いクリームの味がする。
少なくとも、トアキはただの一般人である……多分。ニャルルゥが契約を頼む理由がよく分からない。トアキと契約すると何か利点があるとも思えなかった。特別な血筋とかそういうものではないだろうし。
しかし、ニャルルゥの答えは簡潔だった。
「あなたの側にいると落ち着くんだ。安心するって言えばいいのかな？ あたしの語彙じゃ上手く表現できないんだけど。とにかく、あなたの側にいると安心する」
そう言いながら、トアキの右腕に頬摺りをする。困ったように笑うトアキと、気持ちよさそうに頬摺りをするニャルルゥ。確かにトアキは子供の頃から猫や犬に懐かれることが多い。猫であるニャルルゥも懐くのだろう。
「うーん。どうしよう？ 困ったなぁ」
トアキは人差し指で頬をかいている。
見るたびに吠えられるナツギや、ほとんど相手にされない俺からは考えられない反応だ。トアキは動物だけではなく、子供などの人間から懐かれることも多い。包容力と表現するべきだろうか。確かに他人を包み込むような安心感があるのは事実だった。
「何だか羨ましいぞ……」
ニャルルゥを見ながら、俺が正直に独りごちると――
トントン、と肩を叩かれた。
視線を左に移すと、皐月がにっこり笑って自分を指差している。
俺は何も言わぬまま、トアキに視線を戻した。
「ところで、お前猫は飼えるのか？ さすがに小学生でもないから、自分で世話をするって言えば何とかなるだろうけど。親に相談する必要はあるだろ」
「どうだろうね？」
トアキが首を傾げる。マンションやアパートではなく、普通の一戸建て。猫を飼うスペースはあるはずだ。飼えるとの飼うのでは違うだろうが。ニャルルゥはトアキの腕から離れて、ケーキを口に入れている。
「スルーした！ ツッコミすらなく完全スルーしやがった！」
一方、皐月は隣で愕然としていた。
仕方なく俺はそちらに顔を向ける。
「いや、だって……。反応するの面倒なんだもん」
「メイドは相手してくれないと寂しくて死んじゃうんだぞ！」
左手を握り締め右手で俺を指差しながら、皐月は泣きそうな顔で訳の分からない主張を行う。漫画チックな感情表現。実際に悲しくてい言っているわけではなく、ただの演技だろう。しかし、一体俺にどういう反応を期待しているんだ、お前は……？
「………」
半眼でしばらく見つめていると、皐月は視線を泳がせ始めた。この反応にどう返したらいいのか分からないのだろう。ツッコミ奥義、マジ返し。
右手を引っ込め、丁寧にトアキとニャルルゥを示す。
「どうぞ本題にお戻り下さい」
勝った……。
達成感の全くない勝利の想いを胸に残し、俺はトアキに目を戻した。
「どうするんだ？」
「とりあえず、父さんに聞いてみるよ」
そう言って、トアキは椅子から立ち上がり、部屋のドアへと向かう。ドアを開け、部屋の外へと出て行った。電話のあるところへ向かったのだろう。
「にゃぁ」
締まったドアを見つめるニャルルゥ。椅子の背にしがみつきながら、ドアを見つめていた。尻尾の先が不安げに揺れている。心配なのだろう。
俺はオレンジジュースを全部飲み干し、声を掛けた。
「無理だったら、俺からソラ爺さん辺りに頼んでみるよ。あの人なら、多分飼ってくれるだろうし、意外と猫とか好きみたいだし」
「ソラさん、って……」
ニャルルゥが声を引きつらせてる。
「えと、あのソラ、さんか？」
紫の瞳を大きく見開き、猫耳と尻尾をぴんと立てていた。明らかに驚いた顔であるが、そこまで驚く理由がちょっと分からん。ソラ爺さんが俺の知っていた以上に凄い人物っていうのは理解しているけど……。そこまで凄いのか？
「マズかった？」
俺の問いに、ニャルルゥは腕組みをして何度か頷く。それから、真剣な眼差しで見つめてきた。鋭い眼光を灯す紫色の瞳が、俺を見据えている。くねくねと尻尾が動いていた。
「何で一介の一般人があの人と知り合いなのか気になってな。ましてや猫を飼ってくれと頼めるほど親密とは思えない。お前何者だ？」
いや、何者と言われましてても……。
答えに詰まり、俺は視線を逸らした。
ソラ爺さんと知り合ったのは確か小学校の頃だっただろうか？ 最初は近所の公園で本を読んでいるお爺さんだった。子供特有の好奇心で話しかけてから、いつの間にか知り合いになっていたのである。
そんな昔のことを思い出していると。
キッ、とドアの開く音。
「ただいま」
トアキが部屋に戻ってきた。表情は変わらぬ穏和なものである。
俺から目を外し、トアキに向き直るニャルルゥ。猫であるためか、思考の切り替わりが早い。俺への言葉はもう思考の外に弾き飛ばされているだろう。
ごくりと喉を鳴らして尋ねる。
「どうだった？」
「飼ってもいいって言われたよ。餌代とかはボクが出すことになったし、躾とかもちゃんとやるように言われたけどね。まあ、躾とかは楽だと思うから」
笑いながらトアキが答えた。
「よかった……」
脱力したニャルルゥが、椅子の背に身体を預けている。猫耳と尻尾もへなりと垂れている。今後の生活が保障されたことで、安心したのだろう。
ぽんぽんとニャルルゥの頭を優しく叩きながらトアキが告げる。
「じゃ、そういう事でこれからよろしく」
「よろしく。あたしの新しいマスター」
一転して背筋をぴんと伸ばして、ニャルルゥが答える。口元に浮かぶ、落ち着いた微笑み。緊張していながらも安心したような、それでいてどこか寂しそうな表情だった。
ふと思い出したようにトアキが呟く。
「契約がどうこう言ってたけど、それはどうなるんだい？」
「契約は、いいよ……。やっぱり」
視線をやや下に向け、ニャルルゥはそう答えた。陰のこもった寂しげな声音。
「あなたは魔術師じゃないから本契約は結べないし、あたしもここに置いて貰うだけで十分だ。お返しはちゃんとするから。猫だって三日飼えば恩を忘れないんだぞ？」
顔を上げて、無理に笑ってみせる。明るい笑顔に見えて、薄い影を纏ったような顔だった。前の主人のことを考えたのだろう。しかし、それを口にする者はいない。
ニャルルゥは再び口笛のような呪文を唱える。
「変身」
白い煙が身体を包み込み、ニャルルゥは猫へと姿を変えた。椅子の上から飛び降りて、トアキの足下へと歩いていく。
トアキはニャルルゥを両手で抱き上げて、俺たちに向き直った。
「ありがとうハル、皐月さん。助かったよ」
「どうしたしまして」
「気にするな」
それぞれ答える皐月と俺。あんまり役に立っていないような気もするけど、気にしちゃ駄目だ。トアキの感謝の気持ちを無駄にしてはいけない。きっと。
いかん、こーゆーしんみりした空気は苦手だ。
俺は誤魔化すように口を開く。口元にちょっと強引な笑みを作りつつ、
「それにしても、可愛い猫耳の女の子と暮らせるようになって、お前は幸せものだな。まったく、俺の所にも来ないかな？ 可愛い女の子」
「何を言っているの？ あなたにはわたしがいるじゃあない」
すっと自分の胸に左手を当てて、皐月は優雅に右手を広げた。辺りに煌めくような空気が漂っている。少女漫画的なノリのそんなキラキラ。
俺は何も言わぬまま、ポケットから携帯ハリセンを取り出した。収納状態から一振りで展開する。ただし、広げるのではなく、一枚の板状へと。
縦方向へと構えたまま、振り上げ。
メキッ！
強烈な一撃を皐月の顔面へと叩き込む。例えるなら、細長い鉄の棒で殴ったほどの一撃。普通の人間なら顔の骨がいくつか折れてるけど、こいつは以下略。
顔を押さえてうずくまる皐月を見ながら、トアキが一言。
「相変わらず仲いいよね〜」
だが、俺は聞こえないことにした。
