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第7節 裏切りの対価 |
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………… 「?」 しかし、刃は明日香に刺らなかった。 怪訝に思い、目を開けて視線を動かすと…… 短剣は喉をえぐる寸前で止まっていた。 何が起きたか分からぬうちに。 「あ……あんた……。ジャック!」 呻きながら、チェインが振り返る。短剣が床に落ちた。 「裏切った……わね……!」 その背中に、細い短剣が刺さっている。深緑色の針のような短剣。明日香はそれに見覚えがあった。夕方の倉庫で、ジャックが寒月に突き刺した猛毒の短剣・ヴェノム。 「裏切った――と言うよりは、利用していたという方が正しいね」 涼しげにジャックは告げる。 「即時抹殺命令の保留、体力の回復、君を殺して力を奪うことを見逃す。その交換条件が、ヴィンセントとカラを引き離すだけ。アスカの言う通り、それは都合がよすぎると思わないかな?」 「…………」 「君は私にとって駒に過ぎない。用の済んだ駒は、邪魔になる前に始末する。知っての通り、私はカンゲツのように甘くはない。まさか忘れていたかい?」 「……ジャ……ック……!」 呪詛のような呻きを発し、チェインはジャックを睨みつけた。相手を貫き、呪い殺せそうなまでの視線。ジャックはそれを軽く受け流す。 視線の力は見ているうちに弱くなり…… 「グッバイ」 ジャックの言葉を最後に、チェインの命は途絶えた。 乾いた土のように身体が崩れ、白い塵と化し、その場に広がる。塵は空気に溶けるように消えていき、残ったのはドレスや装飾品だけだった。 「ジャック――」 呻きながら、明日香はジャックを見つめる。 ジャックは何事もなかったかのように、明日香に向き直った。その表情に乱れはない。チェインを殺したことは何とも思っていないらしい。 「これで、邪魔者はいなくなった」 「あたしを殺す――?」 相手を睨んで尋ねると。 ジャックは口元に手を当てて、 「殺す……とは適切ではないな。今だから白状するが、実を言うと私は始めから君を殺す気などなかった。結果的に死ぬというだけだ」 「結果的?」 意味深な言葉に、訊き返す。今まで、ジャックは半妖の力を危険視して自分の命を狙っているのだと疑ってもいなかった。しかし、違っていた。 (結果的に死ぬ。じゃあ、その前に何かあるってこと?) 「あんた、何考えてるの?」 明日香は問い詰めた。 ジャックは口の端を上げる。それは、どう好意的に解釈してもぞっとしない表情だった。明日香の問いには答えず、全く別のことを言ってきた。 「カンゲツの言ったことを覚えてるか?」 「………?」 視線で問いかけると、読み上げるように言ってくる。 「俺たち執行者は、裁定者の定めた掟には逆らえない。裁定者の命令に逆らえない」 寒月が言っていたこと。だから、無明を殺すしかなかった。明日香は、泣き声のような叫びを思い出す。顔は見えなかったが、泣いていたのかもしれない。 「それがどうしたの?」 低い声音で尋ねる。と、ジャックは芝居じみた動作で腕を振ってみせた。 「寒月はこうも言っていた。『俺たちは目的を持って作られた生き物。命令されれば、従うしかないんだ。命令に逆らうことができない。これが執行者の性だ』とね」 「?」 見ていると、ジャックは続ける。 「それは私も同じだ。しかし、私はそれを脱したいと思っている」 そう言ってから、また別のことを言ってきた。 「君は、裁定者を何者だと思っている?」 「あんたたちの……ボス?」 「そうだ。加えて、人間の言うところの『神』でもある。その命令は絶対。私たち執行者はその命令に逆らえない。私たち執行者は、裁定者の駒だ」 ジャックは自嘲するように口元を歪める。 「私は駒の立場から脱したいと思っている。私は駒を動かす指し手になりたい。裁定者を倒し、私が新たな裁定者となる。私は『神』となるのだ!」 「クーデター……?」 「そうとも言う。幸いにも――おっと、迂闊にもと言うべきか、裁定者が作った掟に『裁定者を殺してはいけない』というものはない。私の記憶にある限り、裁定者が『自分を殺すな』と命令したこともない」 「あんた……」 明日香は背筋が凍りつくのを自覚した。ジャックは自分には想像できないようなことを画策している。これは、寒月も予想していないだろう。 「でも、あんたにそんな力があるの?」 「今はない。だが、これから手に入れる」 と、氷のような視線を向けてくる。 明日香はそれから逃げようと身体を動かした。が、椅子が動いただけだった。恐怖に呑まれそうになりながら、必死に自制を保つ。 ジャックは時雨を捨てて、右手を動かした。手品のように一本の剣が現れる。 長さは子供の背丈ほど。金色の柄にはきれいな装飾がなされ、漆黒の両刃には記号のような文字が刻まれていた。その文字を読むことはできない。 「この剣の銘はドレイン。相手を傷つけることなく、その力を吸い取ることができる」 「…………」 明日香は息を呑んだ。 「チェインは君を殺して、その力の一部を手に入れるつもりだったが、私は違う。君の力全てを奪うつもりだ。君の力は強大無比。その力を取り込めば、計算上、私でも裁定者を倒すことができるようになる。君は死ぬけどね」 言うなり、ジャックは明日香の胸にドレインの刃を突き刺した。痛みは感じない。刃が肉に差し込まれる、気味の悪い感触が残る。 「では、君の力をいただく!」 「―――!」 明日香は全身を駆け抜ける喪失感に、喉を詰まらせた。体力、精神力が物凄い勢いで奪われていく。抗うことはできない。意識が朦朧として、何も考えられない。 視界が霞み、何も見えなくなって。 (死ぬ!) 僅かに残った意識が、死への恐怖で埋め尽くされる。自制が効かない。自制する理性はとうに失われていた。意識が恐慌状態となり、暴走する。 (死ぬ! 死ぬ! 嫌だ! あたしは、死にたくない!) ―――! 心の中で、何かが切れた。 身体の奥底から、凄まじい力が湧き出してくる。堰を切られた濁流のような力の流れ。それを押しとどめるものは何もない。意識が呑み込まれる。 「これが半妖の力! すばらしい!」 ジャックが哄笑を上げていた。 しかし、湧き上がる力はドレインに奪われる力の量を上回っている。明日香は閉じていた目蓋を押し上げた。感情が爆発する。 「ああああ……!」 明日香は身体中に力を込めた。身体を縛っている頑丈な鎖が軋みを上げ―― 千切れ跳ぶ。鎖の破片が辺りに散らばった。 「なに!」 ジャックが呻いている間に。 胸を貫くドレインの刃を、明日香は右手で握り締める。 「――半実体の刃を掴んだだと! こんなことできるはずが……」 ジャックの叫びをよそに、銀色の刃を握り潰した。不思議と音はしない。明日香の胸に刺さっている刃と、ジャックの手に残った柄部分がともに消え去る。 「ッ!」 明日香の左拳が、ジャックの顔面をえぐる。 ジャックは紙くずのように吹っ飛ばされて、窓のガラスに激突した。透明なガラスに、放射状のひびが入る。割れはしなかった。 身体を駆け巡る力は、留まることなく勢いを増している。 明日香は落ちていた時雨を拾い上げた。白木の鞘を腰に差し、刃を抜き放つ。不可視の力が剣を包んだ。これが、寒月の言っていた剣気なのだろう。 ジャックが両手にヴェノムを作り出す。数は八本。 「貴様――」 「死ね」 時雨を構え、明日香は言った。手首の腕輪が、砕ける。 思考は停止し、暴走した闘争本能だけが心を満たしていた。 |