Index Top 第2話 緑の探求心

第1章 翌日の朝


「千景さん、起きて下さい。朝ですよぉー」
 意識を揺らすそんな声。
 右手を顔に乗せ、朦朧とする頭で記憶を辿る。自分は大学へ通うために一人暮らしをしていて、同居人はいない。いや、昨日までいなかった。
「おはようございます、千景さん」
「んー?」
 右手を顔から離し、声の主を見る。
 人間の三分の一くらいの大きさの女の子だった。肩の辺りで切られたセミロングの緑色の髪に、子供っぽい表情で千景を見ている。着ている上着も緑色だった。背中から緑色の半透明の羽を三対広げて、宙に浮かんでいる。
 数秒思考を彷徨わせてから、千景はベッドから身体を起こした。
「……ミゥか」
 そう口にする。
 胸に付けられたミゥと書かれた名札。
 満足げに頷き、ミゥが両手を叩く。軽く拍手するように。
「寝起きだから間違えると思ったんですけど、ちゃんと言えましたねー、千景さん。ボクの名前ようやく覚えてくれたんですねぇ」
「緑色だからミゥって感じに」
 目をこすりながら、千景はベッドから両足を下ろした。両手を真上に伸ばして、背筋を伸ばす。窓から差し込む朝の光。時計を見ると七時半だった。
 ミゥが身体を少し傾けた。
 背中の羽から緑色の燐光をこぼしながら、部屋の戸の前まで移動する。
「朝ご飯できてますよー」
「わかった」
 千景はベッドから腰を上げた。一度起きてしまえば、意識が完全に覚醒するまでにそう時間は掛からない。子供の頃から修行の一環として叩き込まれた規律正しい体内時計。寝付きと寝起きはかなり良い。
 部屋を横切ると、ミゥが戸を開けた。
「ありがと」
「いえいえ」
 礼を言う千景に笑顔を返してから、ミゥは千景とともに台所に移動する。
 後ろで戸のしまる音が聞こえた。
 台所で待っていたのは白い妖精の女の子だった。背中の中程まで伸びたやや跳ね気味の銀髪と、銀色の瞳、銀縁の眼鏡。袖や裾に銀糸の刺繍の施された白い長衣を纏っていた。肩から掛けられた茶色い鞄。さらに白いエプロンを付けている。背中からは六枚の淡い金色の羽が伸びていた。
 礼儀正しく一礼してくる。
「おはようございます、ご主人様」
「おはよう。………。ピア」
 千景は右手を挙げた。
 音も立てず固まる空気。銀色の瞳に疑問の光を映し、ピアが訝しげに首を傾げる。
「何ですか? ……その微妙な間は?」
「お前、今"シゥ"って言おうとしただろ。ピアが白いから」
 視線を移すと、窓辺に青い妖精が浮かんでいた。
 長い青髪をツインテールにして、ジト眼で千景を見ている。服装は青い上着とズボン、腰にウエストポーチを付け、背中に氷の剣を背負っていた。昨日付けていた銀色の小手は付けていない。
 胸元の名札には、シゥと記されている。
 その足元では黒い妖精が無言で佇んでいた。名札にはノアの文字。
「はっはっは。そんな事はないぞー」
 ぱたぱたと手を動かし、千景は誤魔化すように笑ってみせた。全く信憑性が無いことは自覚しているが、気にしない。呆れたようにシゥが目蓋を下ろすが、受け流す。
 苦笑いしているピアとミゥ。
 椅子に座り、千景は朝食を眺めた。
「それにしても美味しそうな朝食だな。和食も作れるのか」
 思った事を、正直に口にする。白いご飯と味噌汁、漬け物、焼き魚と卵焼き。絵に描いたような日本の朝食だった。掛け値なしに美味しいだろう。
「はい。お料理はわたしに任せて下さい」
 少し得意げに胸を張って、ピアが言ってくる。
「朝ご飯は一日の生活の基本です。だから腕によりを掛けて作りました。ご主人様も、しっかり食べて、一日頑張って下さい」
「昨日に比べて元気そうだけど」
「おかげさまで」
 千景の指摘に、照れたように眼鏡を動かした。昨日よりも肩の力が抜けているように見える。不安を吐き出して、少しすっきりしたようだった。
 朝食を眺めながら、千景はふと思いついた事を口にする。
「そういえば、ピアたちって食事しないんだよな。味分かるのか?」
 自身に消化吸収機構を持たない精霊などが、水以外の食物を食べると身体に変調を来してしまうことがある。ピアたちもそう違わないだろう。味が分からないのに、丁度いい味加減を整えるのは不思議だった。
 その疑問に答えたのはミゥである。得意げに人差し指を持ち上げ、
「大丈夫ですよー。味だけなら、幻感覚を用いて知ることができますから。直接口に触れているわけではありませんので、衛生的ですよー」
「へぇ」
 千景は頷いた。


 午後十時過ぎの台所。
「というわけで――!」
 千景は元気よく声を上げた。
 椅子に座って千景を見ているピア、ミゥ、ノア。
「どういうわけだ?」
 台所の西向きの窓を少し開け、シゥが冷淡に訊き返してくる。
 口には睡草を咥えていた。一種の嗜好品のため、ピアたちの近くでは吸わないらしい。三対の氷の羽を広げて空中に留まったまま、視線を向けてきた。窓へ流れる空気に、ツインテールの先端が少し揺れている。
「金が振り込まれてる事を確認した!」
 瞳を輝かせ、千景は宣言した。
 あまり興味が無いのか、シゥが睡草を揺らしている。
「なので、これから買い物に行く。日用品や食料を買ってくる予定だが、何か欲しいものがあったら一緒に買ってくる。各自欲しいものを言うように」
 と、そこにいる四人を順番に目で示した。
「欲しいものですか……?」
 考えるように視線を持ち上げてから、ピアは慌てて両手を振る。
「いえ、わたしたちはご主人様の家に居候させて頂いている身。何かを買ってもらおうなどと、そんな。そのお気持ちだけで充分です」
「遠慮するなって。お前たちの生活費も渡されてるんだから」
 千景は軽く手を動かした。
 さきほどネットで自分の貯金口座を確認したら、沼護本家から三十万円が振り込まれていた。通常の仕送り分に、ピアたちの生活費も含まれた金額だろう。自分一人で全額使うわけにもいかない。もし独り占めしたら、制裁が待っているだろう。
 最初に注文を口にしたのはシゥだった。
「じゃ、遠慮せずに言うぜ。オレはこいつを研ぐ砥石を頼む」
 背負っている氷の剣を親指で示す。刃渡り五十センチはある、薄青色の氷の刃を持つ大剣だ。シゥの愛剣のようで、ほぼ肌身離さず持っている。
「仕上げ用はオレが持ってるから、中目くらいをひとつだ。先に言っておくけど、ケチって安物は買ってこないでくれよな?」
「でも、天然砥石は高いから人工砥石だぞ」
 頷きながらも、千景はそう返した。
 刃物用砥石は安いものだと千円もしない。しかし、高いものだと十万円を越える。粗中仕上げに周辺道具までしっかりしたものを揃えると、かなりの金額になってしまう。
「さすがにそこまで贅沢は言わねぇよ」
 睡草を揺らし、シゥが苦笑する。目を閉じて、睡草を咥えたまま息を吸い込んだ。数秒呼吸を止めてから、息を吐き出す。青い瞳に微かに陶酔するような光が灯った。目に映らない匂いの煙が、窓の外へ流れていくのが、見えたような気する。
 いくらか迷ってから、ピアが口を開いた。
「それでは……わたしもご主人様のお言葉に甘えさせていただきます。わたしはお料理の本をお願いします。内容はご主人様が食べたいものを選んで下さい」
「おっけい。ありがとな」
 料理の本。自分が欲しいもので、なおかつ千景の役に立つものを選んだのだろう。本当に欲しいものは他にあるかもしれないが、無理に訊き出すこともできない。素直にピアの好意を受け取っておくべきだろう。
 続いて、ノアが口を開く。感情の映らない黒い瞳を千景に向け、きっぱりと。
「自分は改訂新版世界大百科事典全三十五巻をお願いします」
「却下」
「では、現代数理科学事典と広辞苑と六法全書を」
「却下。もう少し薄いのにしろ」
 ジト眼で告げる千景に、ノアは数秒考えてから、
「では、今年の理科年表を」
「……それなら、いいかな?」
 理科年表を思い浮かべながら、千景は曖昧に肯定した。ノアが口にしたのは、どれも文字通り情報の塊とも表現できる書物。無論、内容に見合うだけの重量があり、一人では持ち運びに苦労するほどだ。
 脳内メモ帳に理科年表と書き込み、緑色の妖精を見る。
「ミゥは?」
「そうですねー」
 ミゥは緩く腕を組んでから、首を傾げた。閉じた唇を左右に動かし、肩を下ろす。さきほどから考えている様子だったが、結局決まらなかったようだ。
「ボクは自分で選びたいので、千景さんに着いていきます」

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幻感覚
妖精炎で五感を模倣する。味見などに使える。
直接身体で触れるわけではないので、衛生的。
11/2/21