Index Top プロローグ

プロローグ 中里 千景


 左手に霊力を集める。
 容量の三割ほど。集められた霊力を吸収し体内の黒鬼蟲が一気に増殖、左手の皮膚をすり抜けて地面へと落ちていった。音はしない。
 地面に積もった黒鬼蟲が、周囲へと広がっていく。
「保険は掛けておかないとな。よく分からない仕事だし……」
 声に出さずに呻き、中里千景はコートのポケットに手を入れた。
 十代後半の男である。中肉中背の体格で、背は高い。短く切った黒髪で、目付きはややきつい。灰色のコートと黒いズボンという服装で、首にマフラーを巻いている。三月も終わりではあるが、この地方はまだ寒い。
 時間は午前十一時過ぎ。天気は晴れ。
 ポケットから取り出した手には、封筒が握られていた。
 長形4号の白い封筒で、見知らぬ文字が記されている。表音文字系に見えるが、どこの国の文字なのかは特定できない。中身は結構多く、封筒は分厚い。
「さて、うちの宗家の爺さんは一体何を考えているのやら? 正式退魔師でもない俺に任せるってことは、そんなに危険なことでもないんだろうけど。腑に落ちん……」
 視線の先には半ば朽ち果てた神社があった。
 二十年以上も昔に打ち捨てられた社。規模はそれほどでもない。既に御神体も移され宿る神も別の所に行ってしまい、事実上の廃墟である。千景が立っている境内も、荒れ放題で枯れた草が無秩序に立っていた。
 本来なら適当に取り壊すものなのだが、何となく今まで残っているようである。
 封筒を持ったまま、千景は足を進めた。
 石の階段を登り、壊れた賽銭箱の横を通り、正面の扉を押し開ける。蝶番が錆びているため、軋んだ音が響いた。人一人が通れる隙間が開いた所で、中へと足を進める。
「さてと――」
 入り口から三歩進んで、千景は足を止めた。視線を巡らせる。
 十二畳ほどの四角い部屋。御神体が置かれていた台は空っぽである。半分朽ち果てていることも想像したが、床や壁、天井などは思いの外無事だった。風が遮られている分、外よりも幾分暖かい。
 視線を落とすと、全く埃の落ちていない床。
「相手は、三人……いや、四人かな?」
 わざと声に出して、千景はそう呟いた。
 ほんの僅かに空気が揺らぐ。
 千景は気配の感じる方へと視線を向けた。見た限りでは何もいない。半分壊れた天井だけが見える。だが、そこに何かが存在していた。
「俺は中里千景。守護十家の沼護一族中里分家の長男だ。怪しい者じゃないし、攻撃する意志もない。その点は安心してくれ」
 そう前置きしてから、右手に持っていた封筒を掲げてみせた。相手がどこにいても見えるように。だが、左袖の中に黒鬼蟲を増殖させておくことも忘れない。
「あんたたちの中にピアって名前のやつはいるか? いるなら出てきてくれ。手紙を届けに来た。出て来ないなら、ひとまず手紙を置いて帰ることにする。返事を聞きたい」
 そう告げて返答を待つ。
 沈黙は数秒。
「分かりました」
 返事が返ってきた。よく通る少女の声。
 何も無かった空中が揺らぎ、白い少女が姿を現す。自分の姿を風景に溶け込ませる迷彩の術のようなものだろう。日本の術とは全く違う術式構成のようだが。
「……え?」
 千景は右手を下ろし、気の抜けた声を漏らした。
 空中に現れた少女――。
 驚いたのはその身長だった。目測でおよそ六十センチ。外見年齢は人間で言う十六、七歳くらいだろう。背中半ばまで伸ばした外跳ね気味の白い髪と、柔らかな顔立ち、細長い尖り耳。眼鏡に包まれた銀色の瞳には、生真面目な意志が映っている。
 その背中からは光の羽が生えていた。鋭利な形状の六枚の羽。
「妖精……?」
 脳裏に浮かんだのはその単語だったが――違うと即座に否定する。この少女は妖精の類ではない。似ているが、少なくとも千景の知識にある"妖精"ではない。
 いくらか警戒心を上げながら、千景は少女を観察した。
 身体を包むのは、足首丈の白い衣である。袖口や裾などに銀糸で刺繍が施され、一目で高級品と分かる。聖職者の着る祭事服の一種だろうと、千景は見当を付けた。左肩から斜めに大きな肩掛け鞄を提げている。
 空中を滑るように移動し、少女が千景の前までやってきた。
「初めまして。わたしがピアです」
 そう自己紹介をしてから、丁寧に一礼する。流れるような動きで、一目で育ちの良さが分かる仕草だった。見たところ敵意は無いし、危険性も感じられない。
 ただ、千景は猛烈に嫌な予感を覚えていた。
「……正直、物凄く厄介なことに巻き込まれているような気がするけど、まあいいや。これ、あんたに渡してくれって頼まれた」
 封筒を軽く放る。
 緩く回転しながら飛んできた封筒を、ピアが両手で受け止めた。
 一拍の間を挟んでから、大きく目を見開く。
「フィフニル語……? 差出人ヅィ……?」
 封筒を持ったまま右手で眼鏡を外し、左袖で目を擦ってから再び眼鏡を掛けた。封筒に書かれた文字を改めて凝視する。絵に描いたような驚きの態度だった。
 五秒ほど封筒を見つめてから、ピアが顔を上げる。
「千景さん、この手紙は――」
 銀色の瞳に映る、必死な意志。心なしか羽の輝きが増しているようだった。この手紙が来ることは、ピアにとって全くの予想外なことだったのだろう。
 だが、千景は否定の意を示すように右手を横に振ってみせる。
「手紙については俺も分からん。俺は宗家の爺さんからその手紙をピアってやつに届けろって言われただけだ。俺はただの運び役。それ以上のことは管轄外だ」
「そう、ですか……」
 両腕を下ろし、ピアはため息をついた。
 何かしらの情報を期待していたのだろう。羽の輝きが少し弱くなり、浮かんでいた高さも三十センチほど下がる。感情変化が分かりやすい。
「力になれなくてすまんが、俺の仕事はここまでだ」
 宥めるように告げてから、千景は半歩後ろに下がった。
 ピアは封筒を両手で抱えたまま、再び一礼する。さきほどの社交辞令的なものではなく、深い感謝の意が込められた一礼だった。
「お手紙、ありがとうございました」
「ああ。それじゃ俺はここで失礼させてもらうよ。言われたものはきっちり渡したし、長居する理由も無いし、他人の手紙を見る趣味もない」
 千景はさらに後ろに下がり、半分開けた扉までたどり着く。
「お気を付けてお帰り下さい」
 屈託のない微笑みを見せるピア。
 その可憐さに、千景は半秒ほど息を止めていた。だが、何事も無かったかのように振る舞う。唇を軽く嘗めてから、短く息を吐いて、
「俺は事情も知らんけど、頑張れよ。何事も諦めずに続けいれば、何とかなるものだし。まあ、手伝えることがあれば手伝うから。じゃあな」
「お気遣いありがとうございます」
 再び頭を下げるピアに手を振り返し、扉を開けて社の外へと出る。冷たい風が頬を撫でた。空気が動いている分、外は寒い。
 カタン。
 背後で木の扉が閉まる音。
「何だったんだ?」
 雑草まみれの境内を歩きながら、千景は先ほど展開した蟲に招集命令を出す。
 ピアと名乗った小さな少女。日本にいる妖怪や神ではない。精霊の類でもない。魔物でもない。危険性は皆無だが、厄介さは非常に大きそうだった。
「まあいいや。俺の仕事はここで終わり。ラーメンでも食って帰るか」
 集まった蟲を回収してから、千景はそう独りごちた。
 それで、自分の仕事は終わったと思ったのだが――


「……何でここにいるんだ?」
 千景は静かにそう問いかけた。
 昼食を食べ終え、下宿先のアパートに戻ってきた時である。二階の西の端にある角部屋。その扉の前に、ピアが待っていた。羽は消えて、廊下に立っている。
 辺りには希薄な魔力のようなものが漂っていた。小さな結界を作り、自分たちの姿を一般人には見えないようにしているようである。
 ピアがどこか不安げな表情で挨拶をしてきた。
「こんにちは。ええと、はい。さきほど渡されたお手紙に、こちらに来るように書かれていましたので、やって来たのですが……。もしかして、ご迷惑でしたでしょうか? いえ、ご迷惑ですよね。突然やって来てしまって」
 間を取るように眼鏡を直し、自嘲するように微笑む。
「いや、実のところ予想――もとい九割方確信はしてた」
 眉間を押さえながら、千景はそう呻いた。
 ピアの後ろに立っているのは、ピアと同じような小さな少女たちである。
 一人は緑色の髪の少女。服装も緑一色。好奇心に満ちた瞳で千景を見つめていた。
 一人は青い髪の少女。服装も青一色。背中に大きな剣を背負いっている。こちらは、威嚇するように睨んでいた。
 最後に黒い髪の少女。服装も黒一色。無表情のまま、無感情な視線を向けてくる。
 この四人の中ではピアがリーダーのようだった。
「つまり、どういうことだ? 大体想像は付くんだけど……」
 千景はため息混じりに尋ねた。
 ピアは何度か左右を見回し、眼鏡を動かした。自分でも自分たちが何をしようとしているのか、上手く理解していないのだろう。それでも無理矢理自分を納得させたらしい。こほんと咳払いをしてから、ぎこちない笑顔を作って一礼する。
「これからよろしくお願いします。ご主人様」
 こういう時はどういう顔をすればいいのだろう?
 脳裏にそんな言葉が浮かんで、消えた。

Back Top Next

10/11/06