Index Top 第4話 白い霧に包まれて

第1章 セット峠の濃霧


 周囲は真っ白だった。
 前後左右に空。全てが白く染まっている。
「参ったわねー」
 冗談のような濃霧の中で、クキィは頭をかいた。何の音も聞こえない白い空間。山地の涼しさとも相まって、現実離れした雰囲気を醸し出している。
「どうだー、おっさん。原因分かったか?」
 ガルガスが声を掛ける。キャンピングカーの上に座ったまま。
 セット山脈を東西に横断する道路。その峠道だった。ある程度整備された二車線道路である。道路の路肩に止められたキャンピングカー。
 キャンピングカーに張り付いていたタレットが、ガルガスに向き直った。大きく息を吐き出してから、左手で眼鏡を動かし首を捻る。
「いや、全然。どこにも異常は無いのに、おっかしーな……。動力系も伝達系も電子系もどこも正常だってのに……。何で動かないかな、こいつは」
 バン、と右手でキャンピングカーのボディを叩く。
 走行中にエンジンの調子が悪くなり、路肩に止めたらそのままエンストしてしまった。タレットが感覚強化の妖術で故障箇所を探っているのだが、一向に止まった原因が分からない。燃料もバッテリーも充分に残っているようだが。
「役に立たないわねー」
 半眼でタレットを見つめ、クキィはヒゲを動かした。
 タレットが眉根を下ろして目蓋を下げ、口元をしかめている。文句を言いたげだが、何も言わなかった。苛立ちを払うように右腕を振ってから、
「こりゃ、バラすしかないか? ガルガス、ちっと手伝ってくれ」
「おう」
 返事をしてから、屋根から降りるガルガス。重いものを扱うのはもっぱらガルガスの仕事だった。リアやクキィが術を使うよりも、素のガルガスの方が腕力が上なのだ。どのような原理なのかは不明だが、重機並の怪力である。
 車が動くようになるのは当分先だろう。
「無線も駄目なようですね」
 ドアを開け、リアが降りてくる。右手に杖を持ち、黄緑色の髪と水色の法衣を揺らしながら。今まで通信機で連絡を取ろうとしていた。しかし、駄目なようである。
 クキィは改めて周囲を眺めた。
「何この霧……」
 白い霧。空は見えず、周囲を眺めても白一色。視界は十メートル程度だろう。まるで白いドームの中にいるようだった。太陽は見えず、風も無い。ほとんど音も聞こえない。うかつにキャンピングカーから離れれば、戻って来るのは大変だろう。場合によっては戻れないかもしれない。
 鼻を動かしてみるが、匂いは無い。当たり前だが。
 手を持ち上げると、薄茶の被毛の先に水滴が付いている。
(気味が悪いわ)
 手の甲を上着に撫で付けてから、クキィは空を見上げた。霧に呑み込まれ自分が消えていくような恐怖。背筋を撫でる悪寒を払うように、肩に掛けた魔銃に手を添える。
 腕時計を見ると、午後四時。夕暮れには少し早い。
 工具箱を取り出し、タレットがぼやいた。
「地形と風の性質上、この辺りに霧が掛かることはまず無いんだが……珍しい事はいつかは起こるってことか? 車動かない以上、霧晴れるまで待つしかないかね?」
「誰かが謀ったみたいね」
 耳を伏せ尻尾を垂らし、思わずそう返事をする。
 立ちこめる濃霧。動かなくなった車。繋がらない無線。まるで、誰かが仕組んだような流れである。お世辞にも趣味の良いものではないが。
「そうですね。求めよ、智の導き」
 リアが左手を持ち上げた。その手の平から、緑色の光の輪が現れる。二十センチほどの緑色の光の輪が、ゆっくりと回っていた。白い霧に浮かび上がる緑の光。
 数秒見つめてから、リアが手を閉じる。光輪が消えた。
「少なくとも、誰かが術などを使っている様子はありません」
 探知系の法術だったらしい。周囲の術などを感知するのだろう。クキィの考え同様、リアもこの状況が誰かの仕組んだものと考えたようだった。
 しかし、それらしき術の反応は無い。
 カッ……。
「!」
 不意に聞こえた足音。
 クキィとリア、タレットは素早く音のした方向に顔を向けた。
 霧の中に浮かぶ、橙色の灯り。
 カッ、カッ。
 規則的な足音が近付いてくる。何の変哲もない、アスファルトの上を普通に歩く足音だった。しかし、音の無い霧の世界では、酷く大きく現実離れした音と聞こえる。
 無言のまま、クキィは尻尾を伸ばした。
 霧の中に浮かび上がる人影。
 やがて、姿の見える所までやってくる。
「こんにちは。失礼します」
 静かな声音で挨拶をしてきた。
 年の頃四十ほどの妖魔族の男だった。落ち着いた顔立ちで、オールバックの銀髪、眼は血のように赤い。年期の入った黒のタキシードを身に纏い、裏地の赤いマントを羽織っている。薄く錆の浮いたカンテラを左手に下げていた。
 全体的に古めかしい服装である。数世紀前の絵から抜け出てきたように。
「こんな所に人が来るとは珍しいですね。どうかしましたか?」
 クキィたちを見回し、そう訊いてきた。
「旅の途中でな」
 答えたのはタレットだった。事実をそのまま言うわけにもいかないので、方便を口にしている。苦笑いをしながら、両腕を左右に広げた。
「急に車が故障しちゃって、立ち往生。仮に動いても、この霧じゃまともに運転も出来ないだろうけど。無線も繋がらなくて困ってるんだよ」
「それは大変ですね」
 キャンピングカーを眺め、男が頷く。
 クキィはじっと男を見つめた。まるで謀ったようなトラブル。そして、まるで謀ったように現れた男。何らかの方法で、この男がクキィたちを足止めし、罠に嵌めようとしている。そう考えるのに、さほど抵抗は無かった。
 しかし、その考えに根拠が無いのも事実だった。
「あんた、誰だ? こんな所で何してるんだ?」
 ガルガスが率直に尋ねる。緩く腕組みをしたまま、瞬きをしていた。現れた男が誰であるか。何故こんな場所に現れたのか。根本的な問いである。
「おっと、失礼。自己紹介が遅れました」
 右手を胸元に添え、左手を横に向け、緩く礼をする。形式張ったお辞儀の仕草だった。
「初めまして。僕はヴィンセント・ヴィルベルと言います。霧から人の声が聞こえたので気になって様子を見に来ました。もしかしたら遭難者かと思いまして」
「ん? ヴィンセント・ヴィルベルって――」 
 タレットが眉根を寄せ、首を捻る。名前に心当たりがあるようだった。
「推理小説家にそんな名前のヤツが、いたような……」
「はい。そのヴィンセントです。最近は暗森の住人という小説を書いています」
 どこか得意げに、ヴィンセントが答える。
 あまり本を読まないクキィは題名を出されても分からないが、タレットとリアは納得したような顔を見せている。暗森の住人という小説に心当たりがあるのだろう。
「その小説家サンが、こんな所で何してるの?」
 肩に掛けた魔銃を掴みながら、クキィはヴィンセントを睨む。
 セット山脈は平均的な高さが三千メートル。クキィたちがいる峠でも、標高千八百メートル。大きな山脈ではないが、気楽に人が入り込める場所でもない。近くの街からは、車で半日もかかる。そんな場所に、一人でいるのはあまりにも不自然だった。
 クキィの胡乱げな眼差しを受け流しつつ、ヴィンセントが答える。
「僕の家がすぐ近くにありまして」
「家って……こんな山の中に?」
 思わず周囲を見る。今は霧で何も見えないが、霧が無ければ斜面を覆う森が見えるはずだ。しかし、周囲に民家や商店などはなく、人が住めるような場所ではない。
「昔の名士が立てた山荘です。それを買い取り、住居として改装しました」
 ヴィンセントは周囲の霧に眼を向けながら、少し照れたように頭をかく。
「どうにも、昔から人気の多い場所が苦手でして……。それに、物書きという職業上、街に住まなくとも、仕事はできますから。空気のきれいな場所は、筆が進むものです」
「ヴィンセント・ヴィルベル……変わり者とは聞くが、噂通りの男かな?」
 にっと口端を持ち上げ、タレットがヴィンセントを見る。自称天才教授。自分と通じるものを感じ取ったようだった。クキィのような凡人には分からない何か。
 ガルガスが明後日の方に向かって大きく欠伸をしていた。
 クキィが何も言えずにいるうちに、ヴィンセントは一人で話を進めていく。
「霧が晴れるのは、おそらく明日になるでしょう。それまで、僕のうちで休んでいきませんか? さすがに、ここで野宿するのは大変でしょう。食事と寝床くらいは用意しますので、遠慮なさらずにどうぞ」
「お言葉に甘えさせてもらうぜ」
 何故かガルガスが堂々と答えた。

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求めよ、智の導き
左手に直径二十センチほどの緑色の光輪を作り出し、周囲の術力の動きを察知する。探知半径は数百メートルほど。隠蔽術を施した術も察知できる精度。
難易度4

11/5/5