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プロローグ クキィ・カラッシュ


 マスマティ共和国のアクシアム地方南部に位置するルート市。
 さらにその裏町と呼ばれる、散雑とした地域。
 全てはそこからが始まった。


 トントン、と。
 ドアがノックされる。
 ゆらゆらと尻尾を揺らし、クキィは背筋を伸ばした。
 蛍光灯に照らされた部屋。狭い部屋にはベッドと簡単な家具だけが置いてあった。下宿代わりにしている安宿の一室である。食事などは出ないが、一晩千三百リング。
 時計を見ると、午後九時半。人が訪ねてくる時間ではない。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
「こんな時間に誰かしらね? 宿のおっちゃんじゃないと思うけど」
 ドアに目を向け、クキィは軽くヒゲを撫でた。
 身長は百六十センチ弱の、猫と人間の中間のような容姿の少女である。顔立ちなどは猫であるが、身体はほぼ人型。猫の亜人である。身体を覆うのは薄茶色の毛で、焦茶の髪を肩くらいまで伸ばしている。白いシャツに赤い半袖のジャケットと、赤いズボンという服装だった。獣人系の亜人は身体を覆う毛があるため、あまり厚着をしない。
「クキィ・カラッシュさん、いらっしゃいますか?」
 ドアの向こうから聞こえてくる男の声。
 クキィは近くに机に置いてある大鉈を手に取った。木の鞘に収められた刃渡り五十センチの角鉈。十五万リングもした得物である。そして、机の引き出しから取り出したオートマチック拳銃。口径は十ミリで装填弾数は九発。
 鉈をベルトに留め、銃とマガジンふたつを懐に収めた。
「少なくとも、ろくな相手じゃないことは確かね」
 入り口へと進みながら、念のため両足に魔力を込めておく。
 クキィはドアを開けた。
「こんばんは。失礼します」
「警察?」
 ドアの外に立っていたのは、人間の男だった。体格のいい背広姿の男で、見た目は警察官である。後ろにも二人男が控えていた。こちらも人間である。人間比率の多いこの街では、クキィのような亜人を見ることは少ない。
「あなたに逮捕状が出ています。我々と一緒に来てください」
 男が取り出したのは一枚の紙。言う通り、逮捕状と記されている。
 尻尾を曲げ、クキィは後ろに跳んだ。
 逮捕状を突きつけられたことに驚きはない。元々人に威張れるような生き方はしていない。生活のために犯罪に関わることもしている。だが、この男に違和感を覚えた。
(捕まったら、マズい!)
 脳裏に弾ける危険信号。
 懐から取り出し拳銃を、威嚇するように突き出す。普通の相手ならば、驚くなり怯むなりの反応を見せるはずだ。少なくとも、普通の警察官ならば。
 逮捕状を捨て、男は迷わず踏み込んできた。異様な速度と鋭さを以て。
「やっぱり警察じゃないわね……」
 躊躇なくトリガーを引く。
 撃ち出された鉛の弾丸を――
 男は素手で打ち払った。防御力を高める鉄硬の術を腕に掛けて。
 弾かれた弾丸が壁に小さな穴を開ける。
 術を用いて銃弾を防ぐのは、極端に難しいことではない。しかし、弾道を見切るのは、並の技術ではなかった。一介の警察官が使えるようなものではない。
「これは、ヤバくない……?」
 クキィは再び床を蹴り、窓へと突っ込んだ。威嚇に二度発砲する。
 雑居ビルに囲まれた裏通り。車が辛うじてすれ違えるくらいの道路だった。
 宿屋の二階から道路まで、およそ五メートル。二階の窓から飛び降りることはどうということもない。窓枠とガラスの破片と一緒に道路に落ちていく。
(財布は持ってきたかったわね。そんなにお金入ってないけど!)
 一秒ほどの自由落下の最中、現実逃避気味にそんな事を考える。
 両足でアスファルトの地面に着地。
 ――と同時に、着地とは別の衝撃が走った。
(喰らった……!)
 そう思った時には、転倒している。
 落下のエネルギーを殺しきれず、クキィはその場に倒れた。転倒の勢いを利用して何とか立ち上がろうとするものの、両足を貫く激痛に尻餅をつく。
「待ち伏せは、予想しておくべきだったわね。たく、何だってのよ……! あたしが何をしたってのよ。いや、色々やってるけどさ」
 予想以上の危機的状況に、クキィは奥歯を噛み閉めた。両脹脛に刺さった、二十センチほど黒い棒。それがボウガンの矢であると理解するには数秒の時間を要した。
 致命傷ではない。だが、立つこともできない。
「動けるまでには早くとも三分……」
 息を止めてから、ボウガンの矢を同時に引っこ抜く。足から背骨を突き抜け、脳髄を抉る激痛。歯を食いしばり、猫耳と尻尾を立て、悲鳴を呑み込む。涙で霞む視界。
 しかし、悲鳴を上げている暇もない。
 素早く呪文を唱えてから傷口に魔力を注ぎ込み、再生の術を発動させる。医術の心得があることが幸いした。
「でも……」
 どう楽観的に考えても時間が足りない。
 カツン、と靴の音が聞こえた。意図的な足音。
「動くな――」
 右から声が聞こえた。低く抑えた男の声。
 視線だけを動かすと、黒装束をまとった男が立っていた。種族は分からないが、多分人間だろう。亜人の気配ではない。右手に小型の連射式ボウガンを構えている。無論、ただのボウガン使いではないだろう。
 銃は手の届かない位置まで転がっている。
 残った武器は腰の鉈だけ。
 クキィは右手を動かし――
 前腕を矢が貫通していた。薄茶色の毛に覆われた皮膚を突き抜ける鋼の棒。
「………!」
 漏れかけた悲鳴を無理矢理呑み込み、尻尾をぎざぎざに曲げる。
 一切の躊躇のない射撃。微かに魔力が見えたが、その術式を読むことはできなかった。おそらくは照準を定める術だろう。
「クキィ・カラッシュ。突然で悪いが、君の身柄を拘束する」
 後ろから聞こえてきた事務的な声。用件は簡潔だった。少なくとも殺す気はないようである。しかし、お世辞にも安全とは言えない。実際両足と右腕を壊されている。
 左側と正面に現れる気配。四人構成の班だろう。
「参ったわね……」
 クキィは静かに呻く。目元から涙がこぼれた。
 手足の痛みのため、まともに動くこともできない。理由も分からぬまま拘束される。理不尽な状況に、甘美な諦めの感情が心を満たしていた。
 吹き抜ける風に、前髪とヒゲが揺れる。
 そして、声は唐突だった。
「ちょっと待ったああッ!」
 闇夜に響く大音声。
 クキィを含めた五人の視線が一斉に同じ方向に向く。
 近くにある三階建て雑居ビルの屋上。満月を背景に、一人の男が立っていた。
「なに……?」
 誰へとなく問いかける。
 尻尾を立て、黄色い両目を見開き、クキィは男を見つめた。
 ヒロインの窮地に颯爽と現れたヒーロー。頭に浮かんだのは、そんなアニメか何かのの一場面である。だが、その冗談のような状況が目の前にあった。
「なにこれ……?」
 再び、クキィは誰へとなく問いかける。答えは無い。
 フェンスの無い屋上に、一人の男が仁王立ちしていた。
 種族は人間、年は二十歳前後だろう。長く伸びた黒髪と野生動物を思わせる鋭利な黒い瞳。牙のような犬歯が覗く口元には、絵に描いたような不敵な笑みを浮かべていた。服装は黒い上着と黒いズボン、その上に丈長の黒いコートを纏っている。
 とにかく黒い男だった。
 屋上に立ったまま、腕組み仁王立ちでクキィたちを見下ろしている。吹き抜ける風にひるがえる黒いコート。それはひどく場違いに思えた。色々な意味で。
 唐突な展開に、五人が何も出来ずにいるうちに。
「クキィ・カラッシュ。お前を助けに来た。両足と右腕が使えないようだが、生きてるなら問題ない。この俺が来た以上、お前の身の安全は完全に保証された! というわけで、今からそこの四人をぶちのめしに行くぜ。とうッ!」
 自信満々に断言するなり、男が跳んだ。跳んだというか、飛び降りた。プールへの飛び込みのように。屋上を蹴って、迷うことなく道路へと落下する。
 生身では自殺行為だが、魔術などを用いれば造作もないこと。しかし、男が術を使った様子は見受けられない。空中で二回転半華麗に身を躍らせてから――
 ガゴッ!
 脳天から地面に激突した。

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亜人
人間に似た姿をした人間でない者たち。大昔に人間から生まれたと伝えられていて、現在は世界人口の約半分を占める。多くは人間を基本とした姿を持つが、稀に怪物的な容姿の亜人もいる。

獣人系亜人
人間と動物を合わせたような容姿を持つ亜人種。手足や骨格は人間に近いが、全身に獣毛が生えていて、頭は犬や猫などの動物に近く、尻尾が生えている。
同じ体格の人間に比べて、かなり身体能力が高い。


大鉈
クキィが以前、知合いの金属加工会社に頼んで作ってもらった鉈。刃渡り50cmの角鉈。頑丈に作ってある反面、切れ味はさほどでもない。しかし、十分に殺傷力はある。攻撃よりも防御に使われる。およそ十五万リング。

オートマチック拳銃
マスマティ共和国で一般に流通しているオートマチック拳銃。9mm弾を使用し、マガジンの装填数は九発。弾丸抜きで、六万リング。
銃刀類所持許可証無しで携帯するのは違法だが、クキィは許可証無しで持っている。

リング
マスマティ共和国通貨。1リング≒1円。
10/10/28