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第2話 ここで暮らすための


 色々話し合った結果、僕の名前はハイロに決まった。自分で考えたものである。髪の毛が灰色だから、ハイロという至って手抜きな名前。だけど、イベリスが思いつきで口にする犬猫の名前みたいなものよりはマシだと思う。
「キミがハイロくんね」
 教授と呼ばれた男は、そう確認した。少し癖のある口調。
 六十歳ほどの痩せた男である。適当に整えた白髪混じりの黒髪。暢気そうな顔で、眼鏡をかけている。灰色の作業着の上に白衣を纏った格好だった。教授かどうかは分からないけど、先生という雰囲気はある。
「はい。そうなりました」
 固めのソファに座ったまま、僕は頷いた。
 目の前に置かれた背の低いテーブル。余分なものが置かれていないのは、そこだけだった。部屋にある他の棚や机には、所狭しと本やら実験器具やら用と不明の道具が置かれている。この教授は、片付けが苦手らしい。
「いい名前だ。似合ってるよ」
 教授は教授はコーヒーの入ったカップを二つ、目の前にテーブルに置く。ブラックではなく、既にミルクの入れられたコーヒー牛乳って感じかな。
 それからお菓子の入った皿を置いて、向かいの椅子に腰を下ろした。
「普通すぎてつまらない」
 テーブルに直接腰を下ろしたイベリスが、そんな事を口にする。
「ポチ、タマ、ミケ、コロ……そういう名前は普通とは言わない」
 僕はイベリスの頭を人差し指でつついた。イベリスは抵抗するように押し返してくるけど、体格の差で抵抗にはなっていない。居心地悪そうに銀色の眉を寄せるだけで、逃げることはなかった。
「頑張って考えたのに……」
 身体を傾けながら、イベリスが呻き声を漏らす。
 コーヒーを半分くらい飲んでから、教授が窓の外を示した。窓の外には森が見える。明るい雰囲気の森。生えている木に一貫性はないけど、どの木も高さ二十メートルを越えるような大木だった。青い空には白い羽雲が浮かんでいる。きれいな場所だと思う。
「とりあえずキミはこれからココで暮らしていくけど、何か分からない事は――って、分かる事がほとんど無いかな? 気になる事はイベリスに訊くといい。ボクが答えてもいいけど、いちいち答えてたんじゃア切りがない」
 他人事のようにイベリスを目で示す。正直な人だな……。
 イベリスは教授が用意していたクッキーを手に取り、それを食べていた。手の平に乗せられる大きさなのに、目に見える速度でクッキーが小さくなっていく。二十秒もかからずに一枚を食べ終え、二枚目のクッキーを掴み上げた。
 話しかけるのは後にして、僕は教授に目を戻す。
「僕は誰なんです? どうしてここにいるんでしょうか?」
「ははは。残念だけど、それを思い出すことは多分永久にないよ――」
 教授の答えは単純にして無情だった。笑いながら言うことじゃないけど。
 よく訊かれる質問に、慣れた答えを返すような言葉の軽さ。僕と同じような質問をした者は、かなりいるんだろう。
 食べかけのクッキーを抱えたまま、イベリスが淡い金色の羽を広げて飛び上がった。僕の周りを一周してから、目線の高で停止する。
「この最果ての森には、ここじゃないどこかから来た人が百人くらい住んでいる。でも、みんな過去の事は覚えていない。思い出した人もいない。だから、あなたも自分の過去を思い出す可能性は低い」
 僕を見つめたまま、イベリスが言葉を並べた。まるで、僕に過去を思い出させないようにしているようにも見える。案外、僕の過去は思い出してはいけないものが潜んでいるのかもしれない。でも、無感情な赤い瞳からイベリスの真意を読むことはできなかった。
 抱えていた二枚目のクッキーを食べ終わり、イベリスはテールブルへと降りた。そして、三枚目を食べ始める。どうやら体積は無視されているみたいだ。
「どういう原理だろう?」
 疑問に思うけど、イベリスは目を向けてくるだけで、答えない。
 教授が上着のポケットに手を入れた。
「ちょっと失礼」
 そう断ってから銀色の箱を取り出す。蓋を開けると、中には煙草が入っていた。それを一本取りだし、口に咥えてから右手の人差し指を弾く。ぽっという小さな音。指先から作られた小さな炎が煙草の先端に火を付けた。
 魔法……?
 僕の向ける視線に、教授は紫煙を横に吹いてから面白そうに笑う。
「興味ある? 君に魔術の資質があるなら使えるかもね」
「ここにいる人は、魔術や魔法、そういう特異能力を使えることがある。元々の素質だから、使える人は使えるけど、使えない人は使えない。あなたがどっちかは分からない」
 頭に乗せた三角帽子を動かし、イベリスが見上げてきた。
 変な能力を持った人間が住んでいる。それは、個人的な素質であって、全員が持っているわけではない。……どういうことだろう? 分かるようで分からない。ここは本当に奇妙な場所だ。場所もそこにいる人間も。イベリスは妖精みたいだけど。
 煙草の灰を灰皿に落としてから、教授が一枚の紙を差し出してきた。
「まず、ここが君の家になる場所だ。日用品類は用意してあるから、そのまま住めるよ」
 紙には手書きの地図が書かれている。日用品まで用意してあるって、えらく用意がいいなぁ。まるで、僕がここに来るって分かってたみたいに。分かってたんだろうけど。
 僕が地図を受け取ってから、教授は再び煙草をくわえた。
「衣食住、残ったのは食だけど。食べ物はその辺りに生えているものを食べればいい。森の住人はここにあるものは何でも食べられるから」
 何ですか、その投げやりな説明は? 僕は思わず眉を寄せた。
 五枚目のクッキーを食べ終わってから、イベリスはティースプーンを手に取る。飾り気のない銀色のスプーン。僕に見せるように持ち上げてから、いきなり囓り始めた。
「ここにあるものは何でも食べられると表現すると分かりやすい。木の実や草、花から石や木、金属まで何でも。あなたも私も教授も、そういう風に出来ている」
 言い終わった時には、ティースプーンが全部イベリスの口へと消えていた。ポケットから取り出した妖精サイズのハンカチで口元を拭いている。
 非常に分かりやすい。けど、かえって疑問が増えてしまった。そもそも僕は"人間"なのか? それ以前に"生き物"なのか? 根本的な部分が怪しくなってきたぞ……。
 吸い終わった煙草を灰皿に押し付けて消し、教授は暢気に続けた。
「単純に暮らしていくだけなら、何もしなくても大丈夫だよ。でも、欲しい物があってそれを買いたいと思うなら、街で仕事をした方がいいな」
「街?」
 また新しい単語が出てきたよ……。状況を把握するどころか逆に分からない事が増えている時に、新しい事を言われても思考の許容範囲に収まらない。
 それを理解しているのかいないのか、教授はコーヒーを飲んでマイペースに解説する。
「ボクたちがいるのは最果ての森。ボクやキミは森の住人。森だけで生活はできるけど、森の外にあるものを手に入れたくなったら、街へ行って仕事をしてお金を稼ぐ。でも、森の住人は街では働けても、街には住めない」
 それは一種の身分格差というものだろうか? でも、教授の口振りからするに、そういうものじゃないみたい。敢えて言うなら、役割分担か――?
「逆に、街の住人は街に住むことができるけど、森の住人同伴でないと森へは入れない。そういうルールだ」
「ルール……」
 その単語が引っかかった。
 僕の反応に気付いたのだろう。イベリスがテーブルから飛び上がり、目の前まで移動する。感情の映っていない赤い瞳で僕をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「最果ての住人はルールに縛られている。と同時に守られてもいる。ここではルールを破るようなことはしない方がいい。その方が安心して暮らせるから」
「ルールね……。分かったよ」
 僕は腕組みをして、視線を下ろす。
 どうやら、教授やイベリスの言うルールが、この場所での最大の鍵となるみたいだ。

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