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第18話 一樹の優しさ?


 ガチャリ。
 いつも通りにドアを開け、一樹は部屋へと戻った。
「ん?」
 電気のスイッチを入れてから、パソコンを見つめる。USBに接続された外付けHDD。キーボードの横に置かれた関数電卓。ディスプレイではスクリーンセイバーが動いている。
 無言のまま視線を移すと、ベッドに乗った毛布が盛り上がっていた。
 荷物を机の横に置いてから、一樹はベッドに近づき、声を上げる。
「鈴音……。引っかかったね?」
 びくりと布団の盛り上がりが震えた。
 一樹は右手を伸ばして布団をめくる。
「うー……。一樹サマ……」
 ベッドの上に丸まったまま、鈴音が見上げてきた。両目に涙を溜めて、身体を震わせている。今までずっと布団の中で怯えていたのだろう。
 一樹はベッドに腰を下ろし、宥めるように鈴音の頭を撫でる。滑らかな黒髪。撫でられることで、いくらか恐怖が薄れるのが分かった。
 気まずげに視線を反らしながら、鈴音は頬を膨らませる。
「一樹サマは酷いのです。あのトラップは反則なのです……。ワタシがHDDを発見してパスワードを開けるまで想定してあるなんて、卑怯なのです。極悪なのです」
 横を向いたままぶつぶつと愚痴っていた。確かに、部屋にひとつだけ置かれたHDD。解きやすいパスワードと解きにくいパスワード。さらにそれを乗り越えた先にあるホラーアニメ。これでもかというほど罠くさい。
「酷いって、他人のものを盗み見るのは自業自得じゃない」
「むー」
 一樹は鈴音の頭から手を離し、眼鏡拭きを取った。眼鏡を外してからレンズを拭いて、再びかける。首を左右に動かしてから、天井を見上げつつ、
「実を言うと、あれは面白半分に作ったもので、まさか本当に引っかかるとは思っていなかった。思い切り罠っぽいし。わざと引っかかったわけじゃないよね?」
 見やると、鈴音は顔を伏せたまま、全身に影をまとっていた。
 影が見えるわけではない。しかし、まるで身体を黒い影のようなものを包んでいるような錯覚を受ける。それほど凹んでいるようだった。
「うぅ、ワタシって一体……」
「そういうこともあるさ」
 鈴音の頭を撫でながら、努めて明るく言ってみる。
 が、効果はない。余計に影が濃くなったように見えた。
 頭を掻いてから、話題を変えるように一樹は窓に目を向ける。
「鈴音、カーテン締めてくれたんだ、ありがと」
「え?」
 はっとしたように鈴音が窓を見やった。跳ねる黒髪。
 緑色のカーテンはきちんと閉まっている。秋も遅いこの時期。日の入りは五時頃になっていた。六時も過ぎればもう外は夜の闇である。
 鈴音がごくりと喉を鳴らした。
「ワタシ、カーテンは閉めていないのです。だって、ビデオ見てからずっと布団の中にいたのです。閉めるはずがないのです……!」
 一樹はスクリーンセイバーの動いているディスプレイを見つめる。鈴音の性格から考えると、逃げることも出来ずに全部見てしまったのだろう。見終わってからそのまま布団に潜り込んで震えていた。昼間はカーテンは開けてある。
 一樹は小さく呟いた。陰をまとった声音で。
「まさか……出た?」
「ななな、何を言っているのですか! 一樹サマッ」
 その場に跳ね起き、鈴音が人差し指を向けてくる。その身体は一目で分かるほど震えていた。白衣の袖も揺れ、カチカチと歯の鳴る音が聞こえてくる。緋色の袴の上からも膝が笑っているのが見て取れた。
「おおお、お化けや妖怪なんて非科学的でオカルトチックなものは――こ、この世には存在しない、しないのです! 理系大好き人間の一樹サマも……お、オカシなことを言うのですね。ハハ、ハハハ……」
 擦れた声音で思い切り強がりを言っていた。頬には冷や汗が流れている。
 一樹は鈴音の頭をぽんぽんと叩きながら、
「非科学の権化みたいな鈴音が言っても説得力ないよ……」
「そそ、それでは、落ち着くのです。素数……は何かありきたりなので、円周率を数えて落ち着くのです! というわけで、一樹サマ円周率を数えるのです」
 びしっと人差し指を向けてくる鈴音。
「円周率か。久しぶりだから、言えるかなぁ? ええと、3.1415926535 8979323846 264338 3279 5028841971 6939937510 5820974944……」
 眉間に指を当て、一樹はぶつぶつと暗唱していく。目を閉じた暗い視界の中に次々と浮かんでくる数字。円周を直径で割ったという単純にして奥の深い数字。
 鈴音の声がそれを中断させた。
「って、何でそんなに言えるのですかァ!」
「中学生の頃暇潰しに五百桁辺りまで暗記した」
 真顔で一樹は即答する。中学生の頃出来心で五百桁まで暗記したのだ。今でも二百桁くらいまで言えるだろう。何度か一発芸として披露したことはあるのだが、反応は薄かった。周率を興味本位で覚えても、せいぜい十桁程度。理解できる人は少ない。
「さすが、数学フェチなのです……」
 戦く鈴音。
 しかし、すぐさま今の状況を思い出し、周囲に視線を走らせた。左腕を真正面に突き出し、肘を右に九十度折り曲げる。その左手首に伸ばした右手を乗せて、人差し指と中指を伸ばした。何かを撃つような体勢。攻撃態勢らしい。
「こうなったらやってやるのです! 必殺の法力指弾なのです。お化けでも幽霊でも妖怪でも神でも悪魔でも魔物だろうと人間だろうと、ぶっ倒してやるのでーす!」
 目を回しながら無茶苦茶なことを口走った。袴の裾がぱたぱたと跳ねている。
 ほどよく暴走してきた。そう判断して、一樹は立ち上がる。すたすたとカーテンの方へと歩いて行き、カーテンレールの端に取り付けられた小さな箱を示した。
「実はカーテン自動開閉装置のせいなんだけどね」
「へ?」
 両手を下ろして呆気に取られた表情の鈴音。
 一樹は箱から伸びる透明な釣り糸を指で示した。釣り糸は反対側の小箱に伸びていて、カーテンの先端にあるフックに繋いである。
「タイマーとモーターとテグスを組み合わせた簡単な機械で、日の出時刻になったら自動でカーテンが開くようになっていて、逆に日の入り時刻になったら自動で閉じる仕組み。昔作ってみたんだけど、なかなか便利だよ」
「………」
 鈴音が黒い瞳を大きく開いて、装置を見つめる。目立たないように設置してあったので、今まで気づかなかったのだろう。ほどなく納得したらしく、ぽんと拳を打った。
「本当にお化けだと思った?」
 笑顔で言い切った一樹の台詞に。
「なああああぁぁぁぁ!」
 鈴音が跳び上がった。怒りの叫びともに、冗談のような勢いで一樹に向かってくる。瞳に炎を灯し、涙を流しながら、空中で器用に三回転。
「飛燕連天脚なのですッ!」
(これで、アニメのことは忘れたかな?)
 そんなことを考えながら一樹は横に移動し、飛んできた蹴りを躱した。

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