Index Top 兄来る - To dear my Sister -

第2章 白鋼、逃げる


 銀一。双子の兄。子供の頃は別々に暮らしていて、時々顔を合わせていた。
 四尾の銀一と七尾の銀歌。双子でありながら、妖力は妹の銀歌が遙かに上。そのことで、比較されることも多かったが、銀一はいつも陽気に笑っていた。当時は、妹を心配させないため、明るい兄を演じているのだと思っていた。
「思ってたけど、あたしが甘かった。純真すぎたんだ……」
 味噌汁を置いて、銀歌は正面の兄を睨む。
 正面の席に座った銀一は、皿に卵焼きを箸で掴んだ。葉月が作った朝食。のほほんとした笑顔のまま、卵焼きを銀歌に向けてくる。
「はい。銀歌、あーん」
「やめろ、バカアニキ」
 事実に気づいたのは、二十歳くらいの頃だった。頭のネジがダース単位で外れたこの性格は、演技ではなく天然モノ。銀歌のことを心配しているとか、自分の力不足を隠すとか、そのような考えはない。本能の赴くままに生きている。
 差し出した卵焼きを自分で食べてから、銀一は眉根を寄せた。
「むぅ。兄に向かってバカとは酷いじゃないか。ボクはCaro la mia sorellaととの甘い朝食を満喫したいだけだというのに」
「愛しの我が妹ですか――イタリア語で言わなくてもいいです」
 お茶をすすりながら、白鋼。
 銀歌の隣に座っていた。朝食は既に食べ終わり、一服している。白鋼は食べるのが早い。元々食べ物には気を遣っていなかったようで、葉月が来るまでは本当に適当な食事だったらしい。数日牛乳だけということもあったとか。
「あの、白鋼さん」
 人差し指を立てて、にっこりと笑う銀一。
「何ですか? 銀一くん」
「さきほどの続きですが、ボクのことは是非『お兄ち――」
 サクッ。
 黒塗りのナイフが、眉間に命中する。十五センチほどの投擲ナイフ。白鋼が袖から取り出し、投げつけたのだ。刃のほとんどが眉間に刺し込まれている。
 人差し指を立てた笑顔のまま、銀一は固まった。
「あの、銀一さん……。大丈夫、ですか……?」
 洗っていた茶碗を置いて、怖々と声を掛ける葉月。
 傷口から流れた血が、鼻の横を音もなく落ちていく。普通の生物なら死んでいるだろう。術も込めていないナイフとはいえ、人外でも無事では済まない。
「大丈夫だよ。葉月さん」
 銀一はナイフの柄を摘み、無造作に引き抜いた。血のついたナイフを白鋼に放ってから、治癒の術で傷を治す。懐から取り出したチリ紙で、顔の血を拭き取った。傷は跡形もなく消えている。
「これくらいの傷、どうってことないさ」
「えっ……と」
 狼狽える葉月。
 眉間にナイフが刺さって無事であるはずがない。治癒の術で平然と治せる傷でもない。葉月のように不定形の身体ならともかく、銀一は狐族だ。
「相変わらず頑丈だな。無駄に」
 箸を置いて、銀歌は唸る。
 理由は知らないが、銀一は異様に頑丈だ。打たれ強いという域を通り越し、不死身めいた身体強度と回復力を持つ。先天的資質で、稀に存在するらしい。
「兄を舐めてもらっては困るなぁ、銀歌。ボクは妹のためならば、たとえ火の中、水の中、草の中、森の中ァ、土の中、雲の中、あの子のスカァトの中ァッ。キャー♪ なかなかなかなか、なかなかなかなか大変だけど♪ 必ずゲットだぜ! ポケモンゲェトだぜィエイエイエイエーィ! マサラタウンにさよな――」
 ザクッ。
 今度は十六本のナイフが突き刺さった。箸をマイク代わりにして、調子に乗って来たところにナイフを食らい、渋々口を閉じる。
「ポケモンメドレーに突入しそうなので、止めました」
「普通に声かけてくれてもいいと思います」
 ナイフが刺さったまま、銀一は抗議した。手慣れた手付きでナイフを引き抜き、傷を治療し、着物の穴を塞いでいく。着物は耐血液製らしい。慣れている。
「君の場合は言葉で言っても聞かないでしょう? というか、君の理論回路が一般人と違うので、議論そのものが成立しないのですよ。以前会った時にそれは充分理解しましたので、余計なことは言わず止めることにしました」
「横暴だ。同じ知能を持った者同士、話せば分かる! 分かりあえるのだ!」
 拳を握りしめ、反論する。言っている意味は不明だが。
 無視して白鋼は立ち上がった。入り口まで歩いて行き、戸を開ける。
「では、僕は今から出かけます。今日は唐草家との会議があるので、夕方まで戻りません。会議は昼過ぎに終わると思いますが、夕方まで戻りません。夜中まで戻らないかもしれません。それでは、銀歌くんのことはお願いしますよ、葉月」
「はい。分かりました」
「おい……待て、白鋼。一人だけ逃げる気かよ!」
 慌てて声を掛ける銀歌に、白鋼はあっさり頷いた。諦めの笑顔で首を振る。
「はい、逃げます。僕、銀一くんが苦手なんですよ。ましてや今の僕は銀歌くんの身体ですからね。一緒にいるのは精神衛生上よろしくないので」
「あたしはどうなってもいいのか!」
「だから、葉月に任せます。それでは」
 白鋼は無情に答えた。
「待って下さい!」
 椅子から立ち上がり、銀一が声を上げる。威風堂々とした声音。
「行く前にひとつお願いがあります」
「呼びませんよ」
 無慈悲に告げてから、白鋼は台所を出た。足音が遠ざかり、玄関の戸が開いて閉じる音。屋敷から出たらしい。荷物は口寄せの応用で自在に取り出せるので、白鋼が出かける時は大抵手ぶらである。
 その場に崩れ落ちる銀一。床に膝と両手をついた。
「そんな……酷いですよ、白鋼さん。ううっ。一度でいい、一度でもいいから『お兄ちゃん』って呼んでほしかったのに……。二人きりの兄妹なのに」
 こぼれ落ちた涙が、床を塗らす。
「あと、お兄ちゃまとか、あにぃとか、お兄様とか、おにいたまとか、兄上様とか、にいさまとか、アニキとか、兄くんとか、兄チャマとか、兄君さまとか、にいやとか色々呼んでほしかったのに……。あんちゃんもいいけど、○あには色々な意味でまずいと思うんだ、ボクは。というわけで、銀歌――」
 銀一は銀歌の両手を取った。涙は消えている。
「ボク的には兄チャマ、チェキ! がいいと思うんだけど、どうだろう? 兄くんというのもミステリアスでいいと思うのだが、ここは王道でお兄ちゃんだろうか?」
「いっぺん死んでこい!」
 叫びながら、銀歌は力任せに銀一を殴り倒した。ありったけの妖力を込めた一撃。五メートルほど飛んでから、仰向けに倒れる銀一。
 しかし、ひょこりと身体を起こした。殴られた頬を撫でながら、
「……? 全然痛くないぞ。んー、なるほど。仔狐になってるから、昔みたいな力が出せないのか。これは大変なことになってしまったなー。どうしよー」
 後半を棒読みで言い放ってから、銀一は立ち上がる。
 揺らめく煩悩を纒いながら、両手を広げた。不気味に輝く真紅の瞳、口元の不吉な笑み。荒い息を繰り返しながら、一歩づつ近づいてくる。どう見ても、危ない。
「だああああッ! 毎度のことながら、何考えてんだよ。このバカアニキはッ!」
 後ろに逃げながら、銀歌は左手をかざした。掌に現れた渦巻く狐火と雷。昔と今では力関係が完全に逆転している。今の攻撃が効くとは思えない。
「愛しの妹との三十年ぶりの熱い抱擁。三時間くらい」
 ギッ。
 金属の軋む音。
「さあ、銀歌。力を抜い――」
 ドンッ!
 銀一が飛んだ。真後ろに。
 葉月の放った右拳。全身をバネに組み替えて撃ち出す、文字通りの大砲。さらに術を込められた拳。音速の壁を超えた独特の衝撃音が響く。
 銀一は部屋を突っ切り、戸を打ち破り、庭を飛び越え、塀を砕き、跳ね上がり、きりもみ回転しながら屋敷前の畑を飛び越え、立木に激突し、地面に落ちた。
「あ……。生きて、ます、か?」
 自分の拳を見つめ、気まずげに呟く葉月。反動で足下の床が数センチ陥没している。咄嗟に攻撃したようだが、力を入れすぎたようだった。相変わらず加減を知らない。普通の狐族ならば、身体が砕けているだろう。だが、相手は銀一である。
「ああ、平気だ。十分もすれば復活する」
 銀歌は言い放った。

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